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『半藤一利と宮崎駿の腰ぬけ愛国談義』


半藤一利と宮崎駿の 腰ぬけ愛国談義 (文春ジブリ文庫)半藤一利と宮崎駿の 腰ぬけ愛国談義 (文春ジブリ文庫)
(2013/08/06)
半藤 一利、宮崎 駿 他

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8月3日、Eテレの『SWITCHインタビュー 達人達』で放送された、
映画『風立ちぬ』をめぐる両者の対談を、文春ジブリ文庫でまとめたものです。

番組は1時間でしたが、
半藤さんのあとがきによると、実際の対談時間は、
前後2回あわせて、7時間あまり!
(半藤さんが『風立ちぬ』を見るまえと、見たあとにわかれています)

「あ、この発言は番組で出てきたゾ」(←表記マネ)
と気づくところがそこかしこにあり、サクサク読みすすめられますが、
当然ながら、番組ではカットされたはなしのほうが、たくさんあります。

さすがに年季のはいったミリオタ…あ、いやいや、
知識と教養をかねそなえたおふたりのはなしは、
「ほうほうなるほどなあ」とうなるものがあり、たちまち付箋でいっぱいに。

(P29)
宮崎 朝鮮戦争が始まると、あちこちにあった空襲のガレキがあっという間に消えたそうですね。
半藤 蔵前橋の西側、蔵前工業高校に山のように積まれてあった戦災の焼けトタンがあれよあれよという間に消えたのをおぼえています。軍需資材として使われたのでしょう。米軍からの特需でクズ鉄の値段が急騰したんですね。ですから朝鮮戦争というのは、戦後日本をある意味では救ったのですが、いっぽう日本の自然をぶっ壊す最初のきっかけだったのではないかと思います。

(p99)
半藤 要するに(引用者注:ワシントン海軍軍縮条約で)つくりつつある日本の軍艦が机上で山ほど沈められてしまった。そのため計画で準備していた鉄と工員さんが大量に余っちゃった。それを何とかしなきゃいけないということで、隅田川に橋がバンバンと架けられたんですよ。
宮崎 軍艦や空母の代わりに橋がつくられたのですね。隅田川の橋は、比較的最近になってできた新大橋(昭和52年竣工)を除けば、みんな立派な鉄の橋です。

風が吹けば桶屋が儲かる、といいますが、
歴史上のことがらが、こうやってつながっているのかと知るのは、
とてもおもしろいものですね。

学校の歴史の授業では、
政治は政治、経済は経済、文化は文化、と項目ごとにページがわかれていて、
なかなかそれらをひとまとめにして、つかうことができませんが、
このおじいちゃんたちのはなしは、
あっちこっちにはなしがとんでいくけど、それがたのしい。
その時代がどういう時代だったのか、を、
歴史の生き証人のことばで、
しかも、じぶんの経験プラス、おおきく全体を見るところからも語れるという。
直接はなしをきいていた関係者がうらやましいです。

さて、映画『風立ちぬ』については、
内容とあまり関係のないところで、場外乱闘がおこっているようですが、
とりあえず宮崎監督のはなしをきいてみましょう。
主人公・堀越二郎について。

(p138)
宮崎 私の父と堀辰雄の、最初の結婚の境遇は似ていますが、あの頃は結核だらけですね。ほんとうにすごく多かった。そしてあの病気は、死病だったんですね。似た境遇の三人が重なって、ぼくは堀辰雄と堀越二郎と自分の父親を混ぜて映画の堀越二郎をつくってしまいました。もうどのへんが境かわからなくなっています。

(p164)
宮崎 けっきょく堀越二郎という人の正体はつかめませんでした。まあ、つかむ必要もないとも思った。ですから、出身地がわかっても調べに行かない。その風景は見に行かない。もう見ない、聞かないって、あるとき決めました。
半藤 たしかに堀越さんの本を読んでも、その人物像は浮かび上がってはきませんね。

(p225〜226)
半藤 昭和16年(1941)生まれなら戦災のあとが、はっきり脳裏に焼き付いてるでしょうね。
宮崎 昭和23年(1948)、24年、25年、そのころに見た風景は、自分のなかに鮮やかに残っています。映画のなかに出てくる堀越二郎の生家の、廊下のある木造二階建ての邸。あれはぼくが育った家の姿なんです。

宣伝ポスターでは「堀越二郎と堀辰雄に敬意を込めて」とあり、
事前の情報で、このふたりをミックスして主人公をつくったのは知っていました。
が、さらに宮崎監督の父親もふくまれていたのですね。
それなら、劇中でこれでもかとタバコをのんでいたのもわかります。
(宮崎監督の父親も、わかいころから喫煙者だった旨、本書にあります)

ぼくはてっきり、あのタバコは宮崎監督じしんを投影したものだろうと。
戦争がどうなろうと、家族をふくめ周囲の状況がどうなろうと、
ひたすらじぶんの夢をおいもとめて、ただただ邁進する芸術家。
しかし、宮崎監督が投影していたのは、じぶんの父親だといいます。

(p221〜222)
宮崎 ですから、主人公の堀越二郎は、時代の生臭さをニュースで聞いて知ってはいる。しかし、名古屋にいる一飛行機技師にとって、それは肉眼で見たものではない。彼は毎日設計事務所に行って、まじめに一生懸命仕事をしている。と、そういうふうに限定したんです。世界がいろいろ動いていてもあまり関心をもっていない日本人。つまり、自分の父親です。あのミルクホールの給仕の娘がかわいいとか、今度封切りされた映画が面白いとかって言っていた人たちが生きていた世界。
半藤 当時日本人のほとんどは、そうでしたよ。それが、持たざる国、日本の昭和なんですよ。民草は食うのに一生懸命。
宮崎 まさにほとんどの人が刹那的でした。それで、そういうふうに描くしかないと思ったんです。ドキュメントをやってくださる人はいっぱいいますから、それはお任せしておいて、ぼくはやっぱり親父が生きた昭和を描かなきゃいけないと思いました。

あの時代において(映画の)堀越二郎が特別な存在だったわけではなく、
それぞれの場で、それぞれの役目をはたしていた日本人は、
みなおなじように、じぶんのことで一生懸命であったのだと。

のちの世を生きているぼくたちは、
大所高所から、あの戦争を、あの時代を、俯瞰して見ることができますが、
そのまっただなかにいたひとたちが、はたしてそうであったのか。
それは、いまのじぶんたちが、さらにのちの世のひとたちに、
どう見られているか、どうかたられているか、ということでもあるでしょう。

航空技術者という役職ゆえか、はたまたその性格のゆえか、
「凡人ならぬエリートだから、あんな言動になるんだ」
「一般人であるわたしたちは、かれに感情移入できない」
「演技が棒すぎる。だからジブリの映画は(略)」
と見られてしまう(映画の)堀越二郎ですが、
かれもまた、あの時代を生きた、ひとりの日本人であるのはまちがいありません。
(最後のはちがう?)

「この映画は、正しい戦争のとらえかたをしていない。だから問題だ」
「病気の女性のとなりでタバコをすうとはなにごとだ。けしからん」
「そもそも堀越二郎はタバコをすわないそうじゃないか。ウソつくな」

世の中的に正しい(とされる)ものしかみとめないのって、
窮屈というか、息がつまるというか、正直しんどいというか。
…なんてことを書くと「おまえは犯罪を助長するのか」とかいわれそうですが。
そういうことではなくてですね。

(p218)
半藤 くどいようですが、『草枕』はアニメにはできませんか。やっぱりだめですか。
宮崎 アニメーションというのはけっこう不便なものでして、嘘をついてもいいやと思えるものはいいのですが、嘘ついたとたんに怒涛の如くいろんな抗議が出てきそうなものは難しいです(笑)。漱石はまさにそれですね。「オレの漱石になにをするッ」と、そういう怒りをヤマほど買うことになるでしょうから。
半藤 ああ、そういう輩はたくさんいそうですね。いわゆる漱石オタク。
宮崎 いっぱいいます。零戦の52型どころじゃないと思います(笑)。

映画にかぎらず、ひとつの作品において、
ひとつの大ウソをつくためには、そのほかは厳密でなければならない、
とは、だれのはなしか、わすれてしまいましたが。
しかし、そのために、作品を鑑賞するぼくたちが、
鵜の目鷹の目で、眉間にシワをよせてみたって、おもしろくありません。

そっちのほうは、そういうのがすきなひとにまかせておいて、
(ぼくもそういう作業が、決してキライなわけではありませんが…)
おおまかにポイントをつかんで見る、というのも、
たまにはいいのかもしれませんね。

ところで、なぜに本書、『腰ぬけ愛国談義』というタイトルなのか。
きっかけはここ。

(p77)
半藤 日本は脇役でいいんです。小国主義でいいんです。そう言うと、世には強い人がたくさんいましてね。そういう情けないことを言うなと、私、怒られちゃうんですがね。
宮崎 ぼくは情けないほうが、勇ましくないほうがいいと思いますよ。
半藤 「腰ぬけの愛国論というものだってあるのだッ」と声だけはちょっと大きくして言い返すのですがね(笑)。へっぴり腰で。
宮崎 ええ、ほんとにそう思います。いいですね、腰ぬけ愛国論か……。

あの時代と現在がかさなるなか、
さて、ぼくたちはどう生きていけばよいのか。
かんたんに、十把一絡げに、すぐに見つかるこたえはないでしょうが、
ちょっとはヒントになることが、この対談のなかにあるかもしれません。

あ、それから。
宮崎監督版で『草枕』映画化という、半藤さんの提案に一票。
実現はむずかしいでしょうが…。
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中条省平『クリント・イーストウッド―アメリカ映画史を再生する男』


クリント・イーストウッド―アメリカ映画史を再生する男 (ちくま文庫)クリント・イーストウッド―アメリカ映画史を再生する男 (ちくま文庫)
(2007/12/10)
中条 省平

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今週のWOWOWは、クリント・イーストウッド特集。
セルジオ・レオーネ監督のドル三部作、『ダーティ・ハリー』5作品(新規吹替も!)、
ほか、監督作品あれこれを放映しています。
この特集を補完するねらいで、書棚からこの本をひっぱりだしてきました。

元版は2001年刊行。
『スペース・カウボーイ』までの作品群について詳細にかたったものですが、
2007年の文庫版では、これに硫黄島2部作までの作品をとりあげた章を追加。
タイトルは「二十一世紀のイーストウッドは十字架の彼方に」。

そう、(とくに近年の)イーストウッド作品の特徴といえるのが、この十字架。
以下、2000年代の作品について。
順番に『ブラッド・ワーク』『ミスティック・リバー』『ミリオンダラー・ベイビー』。

(p259)
イーストウッド扮するマッケイレブは、
サイコ殺人が起こった夜の現場に車で乗りつける。
すると、車から降りた彼の背後の暗闇に、
蒼白いネオンの十字架が浮かびあがるのである。


(p269)
妻から自分の殺人を肯定する言葉を聞かされたジミーは、妻を抱くために裸になる。
その背中には、剣のように鋭い十字架の刺青が刻みこまれているのだ。
むろん、この細部は原作小説にはない。


(p276)
喉に呼吸器を穿たれ、闇のなかのベッドに横たわるマギーに
キャメラが徐々に近づいていく。
すると、マギーの胸には、それまで衣服に隠されていた金の十字架が露わになって、
荒い呼吸にあわせてゆっくりと上下に揺れているのだ。
マギーもまた十字架を背負う人間だった。


さらに、文庫版の刊行のあとに発表された作品においてもまた十字架が。
とくに強烈な印象をのこすのが『グラン・トリノ』です。
クライマックス、隣人をギャングたちからまもるために、
ひとりでかれらのもとにむかうコワルスキー(イーストウッド)。
ギャングたちに銃をつきつけられながら、そっとふところに手をいれ…。
瞬間、一斉掃射をうけて、バッタリとあおむけにたおれます。
両手をおおきくひろげた、まさに十字架の態勢で。

単純に、敬虔なクリスチャンというわけでも、
聖書絶対主義というわけでもないでしょう。
かといって「キリスト教なんてクソくらえ」というのも、ちょっとちがうような。

イーストウッド作品において、十字架をせおう人間は、
それぞれなにごとかになやみ、もがき、くるしみ、
そのなかから、じぶんなりのこたえをみつけだそうとしています。
「いのることで神さまがみちびいてくれる」とはかんがえません。
じぶんのみちをみつけだすのは、あくまでもじぶん自身。

『ミリオンダラー・ベイビー』より。
下半身不随となったマギーは、
フランキー(イーストウッド)に「私を殺して」とうったえかけます。
かのじょのねがいにくるしむフランキーは、なじみの神父のもとへ。

「わかっているんだ、彼女に手を貸すことは大罪だと。
 でも、彼女を生かすことは殺すことだ。
 この矛盾をどう解決すればいい?」
「何もせずに身を引き、すべてを神にお任せしなさい」
「彼女は神にじゃなく、オレに助けを求めてるんだ」


『グラン・トリノ』では、コワルスキーが前述の行動にでる直前、
わかい神父(ホントにたよりなさそう)をたずねて、めずらしく懺悔をします。
が、その内容は、
妻にかくれてほかの女性にキスしたとか、ボートをうって金にしたとか。
そして、2人のむすことのあいだに溝ができていることについて。
「報復する気なのか?」と心配する神父をよそに、さっさとでていくコワルスキー。

「心に安らぎを」
「オレの心は安らいでるさ」


かれらは、神さまのあしもとにひざまづき、みちびきを乞うのではなく、
じぶんのかんがえをきいてもらう、対等なあいてとして神さまをみている。
あくまでも私見ですが、そういう感じをうけます。
クリスチャンからすれば「なんとおこがましい!」といわれるかもですが。

こういうのも、イーストウッド作品をみるうえでの、きりくちのひとつです。
ほかにもさまざまなみかたでたのしむことができるのが、
イーストウッド作品をながくみつづけている理由でもあります。

(p18)
これから書かれるのは、
アメリカ映画の黄金時代から追放された男が、
自力でアメリカ映画の歴史を再構成してゆく物語である。


スタッフ、キャスト、たくさんの才能のちからをあつめながらも、
また、劇中で監督の存在をつよく主張するでもないのに、
最終的には「イーストウッド作品」としかいいようのない映画をつくる人物。
80歳をこえて、これからさらにどんな映画をみせてくれるのでしょうか。

それにしても。
なぜ愛媛県で『J・エドガー』が上映されなかったんだ!まったく!

忌野清志郎『瀕死の双六問屋』


瀕死の双六問屋 (小学館文庫)瀕死の双六問屋 (小学館文庫)
(2007/09/06)
忌野 清志郎

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(p80)
本当に必要なものだけが荷物だ。

ときおりよみかえす本書の、このことばをみるたびに、
本やらなんやらであふれかえっているじぶんの部屋に、ためいきがでます。
どれほどのものをかかえているのか、ぼくは。
そろそろ一気に処分してしまいたくもあるのですが、なかなか。

荷物というのはもうひとつ、しごとであったり人間関係であったり、
じぶんをとりまくいろいろな要素というのもあります。
せおう必要のない、よぶんなものをしょいこんでいないだろうか?
もっとみがるにうごけるはずなんじゃないか?

このたび、本書がCDつき完全版として刊行されるということで、
あらためて文庫版をよみかえしてみました。
一言一句を暗記しているわけではありませんが、
そのパワーのあることばが、ぼくの行動に影響をあたえてきたことを再認識。

(p135)
自分の気に入った音楽にめぐり会えるなんて、あまり日常ではあることじゃない。
みんなが聴いてるからとか、これが流行ってるからとか、TVでよくやってるからとか、
そんな理由でムダ金をはたいてレコード屋でCDを買うなんてつまらないぜ。
…お金のムダ使いで流行を買うのはバカだよ。


鵜飼いの鵜じゃないんだから、
ただくちをあけて、イマドキの音楽をあたえられるのをまっているだけなんて、
もうぼくにはたえられません。
かといって、いい音楽をなんでもかんでもじぶんひとりでみつけられるわけでもなく。

このソーシャルメディアの時代、金銭的なみかえりがなくても、
すばらしい音楽、いまきくべき音楽を提示するキュレーターは、かならずいます。
ツイッターやフェイスブックで、そうした信頼できるひとたちとつながりをもって、
かれらのアンテナにふれてみるのもひとつです。
できればこちらからも、これがいい、これがすきだとしめしてみてもいいですね。
「発信しなければ、得るものはない」(津田大介『情報の呼吸法』)のです。

(p152)
これだけは言っておきたいんだ。
ブルースを忘れない方がいい。
いろいろな名前の音楽が流行するけれど基本はすべてブルースなのだ。

すべての音楽はブルースで説明ができる。
方程式さえ書けるはずだ。


にた体験をしているひとはおおいとおもいますが、
ぼくは、ストーンズ、クラプトン、LEZ、ディラン…などのロックをいりぐちにして、
かれらが影響をうけた戦前〜戦後のブルースをきくようになりました。
B.B.キング、バディ・ガイ、マディ・ウォーターズ、
ロバート・ジョンソン、チャーリー・パットン、ブラインド・ウィリー・マクテル…。

シンプルなのにおくがふかい。
3分でききおわるのに、なかみがこい。
いま活躍しているミュージシャンたちが、どのように影響をうけてきたかがみえてくる。
こうして音楽の源流をさかのぼっていくたのしみもあるのですね。

ブルースのような、じぶんの芯になるものをもっていると、音楽にふかみがでます。
さまざまな「事件」でもってしられることもおおいキヨシローですが、
かれの音楽は、それぞれの時代のおとをつかいながらも、パワフルでありつづけました。
いまは「サマータイム・ブルース」や「ラブ・ミー・テンダー」など、
いわゆる社会派・原発問題関連の知名度がたかいけれど、
そこでおわらずに、いろんなキヨシローの曲をきいてほしいものです。

(p131〜132)
俺は右でも左でもかまわないんだ。
そんなことどーでもいいんだ。
右にどんどん行ってみろ。
やがて左側に来ているのさ。
地球は丸いからね。


そんなことより俺は、人々の心の中に芯が一本通ってりゃいいんだ。
それが一番大切なことだと思ってる。


ウヨだのサヨだのレッテルばりがはやっていますが、
信じたことをやっているなら、んなこたぁどーだってかまやしませんやね。
それでも不安になることも、きもちがゆらぐこともあるでしょうが、だいじょうぶ。

(p39)
安心しろ。
君はまだまだ大丈夫だ。
ぜんぜん平気のヘーザだ。
へっちゃらもいいところさ。
なにしろ俺がここにいて、君と同じ時間を生きてるんだぜ。
こんなに心強いことはないだろう。
よし、OKだ。


このことばに、とてつもない説得力があるのは、やはりキヨシローだからですが、
いつかこのことばを堂々といえるくらいに、ぼくもなりたいものです。

上杉隆『官邸崩壊 日本政治混迷の謎』


官邸崩壊 (幻冬舎文庫)官邸崩壊 (幻冬舎文庫)
(2011/11/10)
上杉 隆

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年があけて「もとジャーナリスト」となった上杉隆氏が、
みずからの「遺書」だというのが、2007年に単行本として出版した本書です。

(p300〜301)
『官邸崩壊』を「遺書」というのは、本書の出版をもって、
私は、自身の目指してきたジャーナリズム活動を休止したからに他ならない。
もはや、書きたいことはすべてこの本に書いた。
嘘偽りなく、満足し、燃え尽きたのだ。


単行本時のサブタイトルは「安倍政権迷走の一年」。
今回、文庫化にあたって、表題のように変更されました。
『官邸崩壊』は安倍政権にのみみられた現象ではなく、
その後の政権、そして民主党政権においてもくりかえされつづける現象である、
という、上杉氏の確信からでしょう。

(p124)
危機意識の欠如、
それはこの政権を覆う共通の空気であった。
損失を最小限に食い止めるため、
即座に手を打つという戦略が採用されることはまずない。
誰もが早々と自分とは無関係であると結論付け、
第三者の余裕で事の成り行きを見守る。
成功に対しては異常なまでに執着するが、
失敗が迫り来るとそろって目を瞑る。
そして危機が直前まで来た時になって、
ようやくその重要性に気付くのだ。
もちろんその時には手遅れである。


「この政権」は、文中ではもちろん安倍政権のことですが、
このくだりをいまの政権にあてはめても、もしや違和感がないのでは。
3.11を経過した日本が、諸外国からどうみられているのか。
低線量にさらされるこどもたちの健康についてはどうか。
危機意識があるのなら、いまのような状況にはなっていないのではないか。

ほかにも『官邸崩壊』にいたる要因が、くりかえしあげられます。

(p143)
万事、官邸はこういった調子で仕事が進んだ。
何よりも、安倍からの評価、
そして安倍といかに自分が近しいかをアピールすることが優先される。
仕事の中身は二の次だ。
たとえ政権にとって困難な情勢が近づいても、悲観的になる必要はない。
全体の責任が自分に問われることはないからだ。
こうした惨状が、安倍官邸のとんでもない失敗の原因を次々と作り出した。


(p228〜229)
政権には驚くべき楽観主義が横行していた。
誰も目前に迫っている危機に気づかない。
いや気づこうともしない。
手柄は進んで求めるが、危機は意識的に遠ざける。
安倍官邸の習性がここでもいかんなく発揮される。
こうして結局安倍自身が、戦闘の最前線に押し出されるのであった。


(p239)
官邸は自らその任命責任を放棄したばかりか、
何の代価も払わずに閣僚の一人を野に捨てたのである。
やがて松岡
(利勝。当時の農林水産大臣。引用者注)に下した宣告は、
他の政権参画者にも波及し、松岡自身をも追い込むことになるだろう。
だが、そこまで思いを馳せることができない。
守ることもせず、かといって何らかの決断を下すわけでもない。
安倍のそうした曖昧な行為は、この政権にあって極めて象徴的であった。


責任をとらないこと。
そのことが、本来おさまるはずのわるい事態を、さらにわるい方向にむかわせる。

二者択一をせまり、さからうものを容赦なくきりすてる前任者にくらべて、
優柔不断でひとのいい安倍総理は、旧来の自民党体質からは歓迎された人物でした。
しかし、そのあいまいなやりかたでも内閣支持率の低下がとめられず、
後期の安倍政権は一転、法案の強行採決をくりかえすようになります。

(p244)
…側近らの不祥事は一向に止まず、内閣支持率は続落する。
果たして、何をやっても同じだ、と気付いた時、
安倍は、驚くほど頑固な独自路線を邁進することに決めたのである。
実際、彼は頑迷な政治家であった。
一度物事を決した時の安倍からは、父にあったような優柔不断は消え、
替わりに、祖父のもつ頑迷固陋が宿るのである。


あいつぐ閣僚交代、参院選惨敗、人事権の事実上剥奪、脱税問題、母入院。
『官邸崩壊』と並行して、安倍総理自身の心身も崩壊にむかっていました。
そして2007年9月、突然の辞任。

こわれゆく官邸のなかにいた人物たちも、こまかく描写されています。
通称「チーム安倍」といわれた、世耕弘成、山谷えり子、井上義行、etc…。
これらメンバーのまとめ役となったのが、官房長官・塩崎恭久氏でした。

塩崎氏については、先月『国会原発事故調査委員会』でとりあげました。
愛媛県選出でもあり、注目しているかたなのですが、
その塩崎氏についても、上杉氏は冷静にかきしるしています。

(p80)
安倍政権にあって、塩崎こそがもっとも献身的に働き、
あらゆる政策決定に絡んでいる人物となった。
つまり塩崎は、調整能力が待たれる官房長官という役職にあって、
政策能力を誇示する人物だった。

その塩崎が官房長官に就任した時、政治記者たちから一斉に警告が発せられた。
これで官邸は機能しないだろう。
次期政権は必ず行き詰まる。
彼ほど調整役に向かない人物はいない。
要するに、安倍は人選を間違ったと言いたいのだ。


もし塩崎氏が、官房長官でなく、べつの閣僚ポストについていたら。
安倍総理がもっとも信頼する人物であったがために、
塩崎氏の活躍する場の設定をあやまったのではないか―。
歴史にIFをかたっても詮ないことではありますが。

ともあれ、上杉さん、ジャーナリスト活動おつかれさまでした。
「ウエスギリークス」の展開もふくめ、今後のご活躍を祈念するとともに、
どうか身辺には何重も気をつけられますよう。

ルイス・キャロル/山形浩生訳『不思議の国のアリス』


不思議の国のアリス (文春文庫)不思議の国のアリス (文春文庫)
(2012/01/04)
ルイス キャロル、カズモト トモミ 他

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本作がインターネットで公開されたのが1999年。
いまもここで全文をみることができます。

翻訳のおもしろさについては、すでにあちこちで論じられているとおもいます。
じつは、ぼくはこれをよむのはこれがはじめてだったのですが、
とくに、ことばにつっかかることなく、スラスラとよめました。
ここでは、本編とはべつのはなしを。

すでにネットで全文公開しているものを、なぜ紙の本でかうのか。
それについては、すでに『ソーシャルメディアの夜明け』感想でかきましたが、
じぶんのかんがえを(かきこむなどして)かたちとしてもっておきたいのがひとつ。
いまひとつは、文庫版あとがきにあります。

世は電子書籍の時代。
キンドルやブックリーダーがつぎつぎと発売されるようになりました。
かとおもえば、いわゆる自炊行為に対して作家がうったえをおこす事態も。

その10年以上まえに『不思議の国のアリス』をネットで翻訳した山形氏。
英語圏ではすでにそうなっているように、日本においても、
だれもがいろいろなかたちで自由に文章をつかえるようにした、といいます。

(p215)
当時は、リナックスなどのフリーソフトが一般のビジネス誌などでも
採り上げられるようになった時代でもあった。
だから、すべてがフリー(これは無料という意味ではない。
変な権利の縛りなしにで出回り、自由にだれでも使えるという意味だ)で出回り、
それが果てしなく自由に活用加工され、
さらに広く出回るようになるのだ、という話に説得力があった。

…そしてぼくは今でも、その話を信じている。


すべての著作権がとっぱらわれるということは不可能でしょうが、
クリエイティブ・コモンズのかたちで自由につかえる文章がふえることは、
ネットのみならず、社会ぜんたいにおいてもプラスになるはずです。

(p217)
自分の楽しみで訳して、
できたものはしまいこむのももったいないから、
好きに使ってもらうのがいちばんいいだろう―
そうしてできあがったのがこれだ。

これが世にでた当時、反響はどのようなものだったのでしょうか。
当時はじぶんのパソコンをもっておらず、ましてしってもいなかったので、
それをしるよしはありません(どなたかおぼえているかた、いますか?)。

(p218)
ぼくがフリーで公開しているからといって、
他のアリス翻訳がすべて淘汰されたりはしない。
ちがう翻訳、ちがうバージョンはいくらでも共存できる。
また、フリーで公開していてもこうやって本になり、収益機会が生じることもある。
コードや法律でがちがちに守らなくても、売り上げはたつし、
価格破壊で業界がつぶれることはない。


翻訳におけることばのえらびかたはもちろん、
どういうかたちで提示するかもまた、ひとつの解釈であると山形氏はいいます。
そして、解釈の多様性こそが、アリスの世界をますますゆたかにすると。
解釈は世界にたったひとつ、であるはずがなく、複数のものが存在しえます。
ひとつの解釈がだれかを触発し、またあらたな解釈をうむこともあるのです。

さて、電子書籍のなみに対して、日本の出版社はどううごいたかというと。

(p217〜218)
…それらすべてが考えていたのは、
囲い込みだの課金だの権利保護と称した面倒な制約だの。
愚かな著作家や出版社は、そうやっていろんな制約をつけることが
自分たちの収益を守ることになると信じている。
違法コピーが出回ると自分の売り上げが減るとかなんとか言って。
あるいはそれが産業を破壊するとか言って。

でも実際には、過去にもそうした試みはあって破綻しているし、
音楽でもそうした制約で利益を保護する方式はすべて失敗している。


そういえば、CCCDなんてものもありましたっけ。
あのころ、そのかたちのCDをかうにかえず、うらみにおもったものでした。
歴史はくりかえす、のでしょうか。

とはいえ、文句ばかりいっていてもはじまりません。

(p216)
本当に重要なのは、
人々―その筆頭として自分―がいかにして何かを自由に提供するか、ということだ。
そして自由に使えるものを受け取ったら、それをどう発展させるか、という話だ。


まずはじぶんから。
提供できるものは音楽や小説だけとはかぎりません。
できるところからはじめたいですね。

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