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高畑勲監督『かぐや姫の物語』


かぐや姫の物語 ビジュアルガイド (アニメ関係単行本)かぐや姫の物語 ビジュアルガイド (アニメ関係単行本)
(2013/11/21)
スタジオジブリ

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姫の犯した罪と罰。

映画のキャッチコピーとなったこのキーワード。
それについて、本編のなかで直接にふれられることはありませんでしたが、
『竹取物語』の原文には、月からの使者が翁にいうセリフで、こうあります。

「かぐや姫は、罪をつくりたまへりければ、
 かく賤しきおのれがもとに、しばしおはしつるなり。
 罪のかぎり果てぬれば、かく迎ふるを、翁は泣き嘆く。能はぬことなり」


姫さまは(月の世界で)罪をおかしてしまわれたので、
下賎なおまえのもとに、しばらくいらっしゃることになったのだ。
その刑期がおわったので、このようにおむかえにきたのに、
おまえは泣いてかなしんでいる。
(姫さまを地球にとどめおくことは)できないことなのだ。

つまり、
月にかえることで、翁や媼らとかなしいわかれを体験することが罰なのではなく、
地球上にいることのほうが、かぐや姫にとっての罰であった、ということ。

クライマックス、かぐや姫をむかえにきた月のひとびとは、
どんちゃんさわぎのような、たのしい音楽にのってくりだしてきますが、
(まさか上々颱風の演奏ではあるまいか、と一瞬おもってしまいました)
その顔にはなんらの表情もうかべず、能面のよう。
ひとを愛するよろこびにも、ひととわかれるかなしみにも、
いっさいくるしむことのない、こころやすらかな世界の住人たち。

それにくらべて、このシーンにいたるまでの約2時間、
かぐや姫がスクリーンでみせた言動の、なんといきいきとしたことか。
「鳥 虫 けもの 草 木 花」をみつけてはよろこび、
いきどおりのこころを体現するかのように、風よりもはやくかけだし、
じぶんのおもいつきで他人を不幸にしてしまったことを後悔して泣き、
媼とともに機織りをしたり、庭をいっしょに見たりして、おだやかな顔をみせ。

そうした喜怒哀楽はどれも、かぐや姫が月にいたままでは、
決して体験することができなかったものです。
月の住人たちからすれば、そうした地球の人間の言動すべてが、
とてもけがらわしい、かかわりたくないものにみえたのでしょう。
そんなけがらわしい地球に、あろうことか、姫さまはあこがれてしまった。

かぐや姫のおかした罪とは、
「地球にいきたい(行きたい/生きたい)」とねがってしまったこと。
かぐや姫にあたえられた罰とは、
「ならばそのけがらわしい地球でせいぜいくるしんでくるがいい」ということ。

パンフレットにおさめられた、高畑勲監督の企画書をよむと、
おおよそこういうことではないかとおもわれます。
企画書には、かなりこまかなこともかかれていますので、
さきに設定を知っておきたいかたは、映画を見るまえに、
ネタバレは知りたくないというかたは、映画を見たあとに読まれますよう。

「わたしはなにをしてきたのでしょう…」
翁と媼にじぶんの正体をあかしたかぐや姫のセリフです。
ふたりとのわかれがかなしいのも、もちろんあるでしょうが、
さらに、じぶんがあこがれたこの地球で、
そのうつくしさをしっかりととらえて、ねがったようにすごしてきたのだろうか、
いいやとてもそうはいえない…と後悔してのことばでもありましょう。

かぐや姫が、天の羽衣を身にまとった瞬間、
地球での記憶はすべてきえさり、月の住人の顔になります。
生きるよろこびもかなしみもない世界の住人。
地球=「生」、月=「死」、の象徴であると見れば、
じぶんの余命をしった人間がどういう思いになるのか、が、
終盤のかぐや姫のすがたにあらわれているともいえます。
じぶんは精一杯生きてきたのだろうか、このまま死んでいいのか…と。

でも、映画を見ているぼくたちは知っています。
たとえ聖人君子でなくたって、絶世の美女であろうがあるまいが、
かぐや姫が、人間のよろこびもかなしみもその身にそそぎこんで、
ひとりの人間として、いきいきと生きてきたことを。

ラストシーン、月にかえっていくかぐや姫は、
一瞬だけ地球をふりかえります。
じぶんのむねにわきおこる、ことばにできないこの感情は、いったい何なのか。
記憶をなくしても、思いは(歌になって)のこっているのか。

おぼえていてほしい。
わすれないでいてほしい。
それは、かぐや姫の帰還をみおくる(≒死者をとむらう)翁や媼、
そして観客であるぼくたちの、身勝手な解釈、ワガママなのかもしれません。

それでも、そうした「けがらわしい」感情をもひっくるめて、
それこそが地球に生きる人間のありかたなのだ、と、
地球にあこがれたかぐや姫にいわれているような、そんな印象をもちました。

パンフレット、プロダクションノートより。

プレスコ当時、地井(武男)さんは台本を読んですぐに高畑監督に質問した。
「高畑監督、これは地球を否定する映画なんですか?」
すかさず高畑監督は
「まったく逆です。これは地球を肯定する映画なんです」と応じた。
その後、その答えに安心してか、
70歳近い声優初心者は楽しそうにプレスコを続けたという。


翁役、地井武男さんの第一声がながれてきた瞬間、
映画がはじまったばかりなのに、こらえきれず、おもわず涙が。

どうか地井さんも、この映画をたのしんで見てほしい。
生きているぼくの身勝手なのぞみですが、そうおもわずにいられません。



以下、箇条書きで。

◯こんな作画してたら、そりゃ完成まで8年もかかるはずだ…。
 高畑監督のこだわり…というか狂気が、そこかしこからにじみ出ている。

◯時代背景や当時の習慣・風俗などを徹底的にリサーチするのだけど、
 その成果を「どうだすごいだろう」と前面におしだすのでなく、
 絵物語のように、やわらかな感じで表現するという方法。
 そのまんま継承したら、納期までに作品が完成しないことうけあいだけど、
 リアル第一主義におちいらないというのは、大事なことかも。

◯女童(めのわらわ)、愛嬌があるわ気がきくわラストでたよりになるわ、
 「なにこの子、持って帰りたい!」とおもうほどに萌え。
 物販で女童のコインケースや巾着が展開されているのもうなづける。
 演じているのは田畑智子さん。へー、気づかなかった。

◯家庭教師の相模(さがみ)役は、高畑淳子さん。
 いつもはニコニコ動画で、毎週マリバロンさまとして見ているのだけど、
 立て板に水というか、よどみないセリフまわしがお見事。
 「…まっ!」「…あっ…」というリアクションで、わらわせてもらいました。

◯車持皇子=橋爪功オンステージに爆笑。さすがです。

◯御門、深夜枠だったらかぐや姫をあのままおしたおして…ゲフンゲフン。
 (それなら「地球にいたくない、死にたい」っておもうよなあ…)

◯137分の長尺が心配だったけど、おわってみれば、なかだるみは感じられず。
 絵に圧倒されたのもあるけれど、やはり役者さんの演技がよかったからか。
 シリアス一辺倒じゃなくて、コメディチックな演出もおおくてたのしかった。

◯加速装置!的に光速で疾走し、大空を自由自在にとびまわるかぐや姫。
 そのつど「夢だったのか…」というフォローがはいるけれど、
 こういうやりたい放題こそが、アニメーションの醍醐味。すばらしい。
 (自転車で空をとぶ『あまちゃん』のアキにもちかいものがあるかな、と)

◯三宅裕司さん、どこに出てたの?全然わからんかった…。

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オリヴァー・ヒルシュビーゲル監督『ダイアナ』


ダイアナ 最後の恋 (竹書房文庫)ダイアナ 最後の恋 (竹書房文庫)
(2013/09/26)
ケイト・スネル

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上記の本は、関係者へのインタビューをもとにして、
おもに1995年〜1997年のダイアナのすがたをつづったノンフィクション。
それをベースにして映画化されたのが本作となります。
監督の作品風にタイトルをつけるなら、
『ダイアナ〜最期の2年間〜』となるでしょうか。

そう、監督は『ヒトラー〜最期の12日間〜』のオリヴァー・ヒルシュビーゲル。
ドイツにおいて、「人間」アドルフ・ヒトラーをえがきだした、あの監督です。
いまやニコニコ動画では「総統閣下シリーズ」として有名で、
映画本編も何度か生放送がおこなわれています。
(例のシーンだけはプレミアム会員のみ、という抜け目ない運営…)

地下においつめられたナチス幹部と兵士たちの閉塞感・絶望感が、
映画全体にただならぬ緊張をもたらしていた『ヒトラー』。
息がつまるほどにせまくるしい、あの地下通路が、
『ダイアナ』では、冒頭とラストで反復されるホテルの廊下となりました。

1997年8月31日。
ドディ・アルファイド氏と一緒にホテルを出るため、支度をしているダイアナ。
携帯電話をチェックするも、声がききたいあいてからの連絡はなし。
その携帯を部屋においたまま、廊下に出てエレベーターにむかいます。
途中、なにか予感があったのか、一瞬うしろをふりかえるダイアナ。
(オープニングでは、ダイアナの顔をうつさないようなカットにして、
 反復されるラストでは、しっかり表情をフォローしているのがうまい)

ここからはなしは2年前、1995年にさかのぼり、
ダイアナ最期の2年間をえがいていきます。
ストーリーは、恋人ドディとの恋愛模様…ではまったくありません。
あの有名な、水着すがたのキスをスクープするシーンもありますが、
ケイト・スネルの著作では、あれはスクープ「された」のではなく、
ダイアナがカメラマンを利用してスクープ「させた」解釈となっています。

(p267)
すなわち、クルーズも最後に近づく頃には、
ダイアナもドディも状況を十分に把握していたということだ。
つまり、二人とも自分たちの関係を世の中に見せびらかしたがっていたわけだ―
ただし、まったく別の理由で!
ドディは自分が世界一有名な女性と付き合っていることと、
父親の望みを叶えたことを世間に自慢したがっていた。
そしてダイアナは、まったく別の個人的な理由から。


(p268)
つまりダイアナには、明らかにこれらの写真を撮らせる動機があったのだ。
タイミングから考えて、その理由はひとつしか見当たらない。
ハスナット・カーンの本音を引き出し、彼を取り戻すことだ。


ハスナット・カーン氏。
いまも現役の外科医としてはたらく、ダイアナのかつての恋人。

世界一有名なセレブリティの女性と、医療現場ではたらく仕事熱心な一般男性。
彼女は、自分にむけられる好奇の視線と、ときにたたかい、ときに利用し。
彼氏は、目立たず平凡に生活したいだけで、その視線にはたえられない。
たがいに尊敬し、理解し、つよく惹かれあっているのに、
彼女がプリンセスであるというそのことが、おおきな壁となってたちふさがる。

あらすじだけよめば、どこにでもあるベタな少女マンガのような展開ですが、
これがホントにあったことだというのだから、事実は小説より奇なり。
ホレた男のために、もてなし用の料理をおそわったり、
ふだんはまったくきかないジャズ(ハスナットの趣味)について勉強したり。
このまますぐにアニメのヒロインになれそうです。

病院で出あってからずっと、ダイアナはハスナットに一途で、
それは(おそらく激情に駆られて)わかればなしをしたあともかわらず。
一回破局しただけで、恋愛マンガが最終回になるはずありませんものね。

あいてのこころをもう一度じぶんにむけさせるには、
つよい嫉妬心をおこさせることが必要であり、
そのためのいわばアテ馬がドディであった、ということになります。
好きな男をふりむかせるためなら、
じぶんを好きな男も、むらがるマスコミも、いくらでも利用するぞ、と。

車の窓ガラスをバンバンたたいて、ダイアナの顔を出させようとしたり、
ハスナットに会いにいった深夜の病院で、勝手にダイアナの写真を撮ったり。
クルーザーでくつろぐダイアナをねらうカメラが、
アングルによって、まるで大砲の筒のように見えます。

前述のスクープ写真を撮らせるために、みずから情報をリークしたほか、
記者から携帯をとりあげて、上司と直接ハナシをつけるなど、
ながくマスコミと対峙してきたダイアナは、あしらいかたもさすがです。
しかし、カメラのまえでは堂々とうけこたえをしていても、
そこから解放されると、つかれた表情を見せたり、
一個小隊のようなカメラの集中砲火にあってショッピングもままならず、
ダッシュで逃げだしたりする描写もあります。

一連のマスコミやパパラッチとのシーンでおもいおこされたのが、
藤圭子さんが亡くなったあとの、宇多田ヒカルさんに対するマスコミの問題でした。
ご本人のツイートはTogetterにまとめられていますが、
「宇多田ヒカルさんがつぶやいたメディアスクラムの実態」
こうした問題は洋の東西をとわず、いまもかわっていないのですね。

他人のプライベートをのぞき見したいというデバガメ根性が、
じぶんにはない!といいきれるものでは決してありませんが、しかし、
だれがぼくのくだらない根性の代役をアンタにたのんだよ、ってハナシです。
メディア自身が「彼女の私生活をぜんぶのぞきたい!」と宣言するならともかく、
勝手にぼくの代弁者になってくれるなよ。

ちなみに実在のハスナット氏は、マスコミへのインタビューには一切応じず、
本作の脚本コンサルタントを依頼されても、ことわったとのこと。
愛するひととの記憶を、黙して語らず。
そうしたひととなりに、ダイアナも惹かれたのでしょう。

最初にふれた、あの豪華なホテルの廊下が、せまく息ぐるしく感じたのは、
ハスナットとの関係がいきづまっていることもあったでしょうが、
ホテルのまえでまちかまえているマスコミからのプレッシャーも原因でしょう。
即興・機転・ユーモアで対応しながらも、いまにもおしつぶされそうなそのすがた。

メインはあくまで、ダイアナとハスナットの秘められた恋愛ですから、
デートムービーとしてもちゃんと機能しているとおもいます。
と同時に、こうしたマスコミスクラムの問題についてかんがえたり、
地雷廃絶キャンペーンなど、彼女の人道支援活動をふりかえったりもできますね。

そうそう、地雷廃絶キャンペーンといえば、
ダイアナの死の4年後、2001年に日本では「地雷ZEROキャンペーン」があり、
キャンペーン・ソング「ZERO LANDMINE」制作を主導したのが、
ワーナーミュージック時代の教授、坂本龍一氏でした。

TBSでのスタジオライブでは、演奏に細野晴臣・高橋幸宏両氏も参加し、
「おおお、YMOだ!」と興奮したのをおぼえています。
この共演にいたるまでの、3人の複雑な心境を知るのは、もっとあとになってから。
ああ、このダイアナの活動がここにつながってくるのか…と、
個人的にもグッとくるところのある作品でした。

…えっ、吹替版には、てらそままさき!飛田展男!二又一成!
しまった、それならそっちでもよかったか…。

李相日監督『許されざる者』


許されざる者 (幻冬舎文庫)許されざる者 (幻冬舎文庫)
(2013/06/28)
司城 志朗

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クリント・イーストウッド監督のオリジナル版は見なおさずに劇場へ。
これまでに何度もくりかえし見てきた作品ですから、
あらすじやキャラクターは、すべてあたまのなかにたたきこまれています。
それでも、なるたけオリジナル版の印象をとりはらって、
未知の作品を見るような姿勢で、新鮮にたのしみたかった、というところです。

基本的なストーリーは、オリジナル版そのまま。
ウィリアム・マニー=十兵衛(渡辺謙)に賞金首の話をもちかけてくるのが、
ザ・スコフィールド・キッド=五郎(柳楽優弥)ではなく、
ネッド・ローガン=金吾(柄本明)にかわってはいましたが。

そう、柳楽優弥!
ぼくは事前情報を極力シャットアウトしていたので、
渡辺謙、柄本明、佐藤浩市の3人しか役者をしらない状態で見ていました。
「あのアイヌ青年、いい役者だなあ」とうなっていたのですが、
まさか柳楽優弥だったとは!エンドロールでびっくり。

帰宅してから、きのうのニコニコで生放送された、
「渡辺謙 ニコニコ初降臨 映画『許されざる者』公開記念特番」をTS試聴。
テイクを何回もしぶとくかさねるスタイルを、トークでもツッコまれる李相日監督。

うえむらちか「監督は(テイク)1回目じゃなかなかOKを出さないとお聞きしたんですが…」
李相日監督「いや、出す時は出しますよ」
渡辺謙「アハハハ(笑)」
うえむら「ホントですか?」
李監督「あの…少ないですけどね」
うえむら「同じシーンを何度も何度も…」
李監督「もっとよくなるって思っちゃうんですよね。『次は自分が思ってたもの以上がくるぞ』と思っちゃうと、トップがどこなのかを見極めたいというか」


とくに柳楽優弥の演技は、何回も何回もリテイクしたそうです。
しかし、かれのラストカットは「1回で終わりました」と。

はじめて人を殺し、その記憶を酒でごまかそうとする五郎。
金吾が署長(佐藤浩市)に殺されたと知り、復讐にむかう十兵衛にむかって、
「オレはあんたみたいにはなれないし…なりたくもない…」と、
恐れ/畏れ、あきらめがないまぜになった、複雑な表情を見せる、そのアップ。

「ああ、いい顔だ」
ヒゲと長髪(ほぼ自前!)でボサボサの、つかれきったその顔を、
ホントにすばらしいとおもいました。
本人いわく「撮影中は毎回怒られっぱなしで、本当に恐怖の日々」だったそう。
でもその結果が、このグッとくるカットにつながったのですね。

あ、そうそう。基本的なストーリーはそのままと書きましたが、
こまかなところは日本版の演出として、変えているのもあります。

たとえば、雨と熱でフラフラの十兵衛を署長がうちのめすシーン。
オリジナルで、マニーがつかもうとした酒瓶をとりはらうのはおなじですが、
さらにそこから酒瓶を割って、
「悪党には目印が必要だな」と、切っ先を十兵衛の右ほほにギィィ…。
さらには、捕縛した金吾への折檻に、焼きゴテをジュウウ…。

また、保安官=署長が、自分の家を自分で建てる描写がありません。
李監督によると、建てているシーンは撮影したのですが、すべてカットしたと。
一国一城の主というのは、なるほどアメリカンドリームの体現ですが、
日本版では、そこで観客が、署長とじぶんをかさねあわさないようにしている?
とはいえ、単純な、典型的な悪役でないのは、もちろんですが。

それから、署長が北大路(國村隼)に銃をわたしていうセリフ、
「弾が気になるか?どうだったかな。オレにもわからん」は、
『ダーティ・ハリー』の冒頭、ハリーと銀行強盗とのやりとりっぽい感じ。
登場人物が「ミョンミョン…」と口琴を演奏するのは、
『夕陽のガンマン』などの、エンニオ・モリコーネ音楽を彷彿とさせますし、
随所で小ネタ的に、イーストウッドへのオマージュらしきポイントが。

おおきな変化としては、やはりアイヌへの言及でしょうか。
文明開化の名のもとに、アイヌの文化を徹底的に破壊する新政府。
いまのぼくたちは、字幕をつけなければ、かれらのことばもわかりません。
あたらしい時代をつくるために、どれだけのものをすててきたのか。

もうひとつ、武器に刀が追加されたという変化もあります。
十兵衛が最初の賞金首をしとめたのも刀。
カメラは、にげまわる賞金首と、あゆみよる十兵衛をおっていきますが、
とどめをさすその瞬間は、カメラがひいて俯瞰的に、
感情移入をゆるさないように、冷酷にうつしだしています。
それでもその(殺す/殺される)いたみは、十分こちらにつたわります。

渡辺「(イーストウッド監督の)オリジナルって、映画館でその時代に見たっていう人は―もちろんなかにはいらっしゃると思うんだけど―数は少ないと思うわけ。あれは、あの時代のなかで出てきた映画として、すごく衝撃的だった気はするんだよね。ハリウッドのウエスタンって、ザッツ・エンターテインメントっていう…正義が悪を倒す、最後はある種のカタルシスがあって、みたいな。そういう一切を排除した、凄まじいほどのあっさり感が衝撃だったわけですよ」

そしてクライマックス、酒場での凄惨な大量殺人。
キリングマシーンと化し、むかってくる警官、屯田兵たちを次々に殺す十兵衛。
上司の命令にしたがうだけの、ただ職務に忠実なだけの人であっても。
この北海道にくるまでに、かれらにどんな人生があったかは、まったく関係なく。

いわゆるチャンバラ的な、ヒーローの殺陣というものは、
ここには一切ありません。
なにがなんでも生きのびようと、必死でたたかう人間のすがただけ。
CGもワイヤーもない、生身の人間どうしのぶつかりあい。

十兵衛が署長の腹に刀をぶっ刺し、切りすてた瞬間、
もともと錆びついてボロボロだったその刀は、ポッキリと折れてしまいます。
瀕死の状態ながら一太刀あびせようと、手もとの刀をもちあげる署長でしたが、
「重てぇ…」と、ついにちからつき、刀をおとします。

かつては幕府方の人斬りとして、あるいは新政府軍の一兵卒として、
武士の魂である刀を手にたたかっていた、十兵衛と署長。
いまやその魂は、ふたりの手からこぼれおち、もうもどってはきません。

炎上する酒場から、傷のいたみをこらえて出てくる十兵衛。
門のそばでは、女郎たちによって緊縛をとかれた、金吾の遺体が。
(ここも日本版のみの描写)
金吾を見おろす十兵衛。

「地獄で待ってろ」

ここで再会の約束をかわすあいては、金吾なのですね。
オリジナル版では、マニーが保安官を殺すときに約束していました。

「地獄で会おうぜ、ウィリアム・マニー」
「ああ」

こっちのバージョンだと、マニーも保安官もおなじコインのオモテとウラ、
どちらも暴力をふるう「許されざる者」である、とはっきりさせられます。
(生きる)くるしみから解放された金吾は、許された…といえるのでしょうか…。

そもそも、だれが「許されざる者」であったのか。
賞金首のみならず、警察関係者を血まつりにあげた十兵衛?
金吾を拷問して殺し、十兵衛の復讐のきっかけをつくった署長?
十兵衛に賞金首のはなしをもってきた金吾?
傷つけられたなかまのために、賞金を出した女郎たち?
女郎を傷つけた、もと仙台藩士の開拓民?
入植政策をすすめるため、かれらを故郷からつれていった政府?
いもづる式に犯人をさがしても、キリがありません。

生きるかぎり、生きつづけるかぎり、ぼくらはみな「許されざる者」なのか。
だとしても、それでもぼくたちは「生きねば。」ならない。

うえむら「わたし、映画を見る前にお腹が空いていたんですね。『お腹が鳴ったらどうしよう』って考えてたのに、見終わった瞬間に食欲が何も…」
渡辺「そんなこと言うとさ、これ『食欲が失せる映画だ』みたいに思われちゃうから(笑)」
うえむら「違うんです!集中しすぎて、食欲さえも忘れてしまう、没頭しちゃう映画だったので…」


ちょうどおひるどきに見たぼくも、うえむらちかさんとおなじ感想です。
エンドロールがおわって、ふうっと息をはき、こわばった筋肉をときほぐすような。
ストーリーのさきよみは、いくらでもできるはずなのに、
それでもこのただならぬ緊張感。

そんななかでも、スクリーンいっぱいにうつしだされる、
北海道の雄大な自然が、とてもうつくしく、畏敬の念をおぼえます。
まっくらな劇場のなかでひかる、白い雪景色の、なんとまぶしいこと。
重く哀しい人間の物語とのコントラストが映える、すばらしい日本映画です。

ギレルモ・デル・トロ監督『パシフィック・リム』(吹替版)


パシフィック・リム (角川文庫)パシフィック・リム (角川文庫)
(2013/07/25)
アレックス・アーバイン

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\ロケットパァァァンチッッッ!!!/

これがきけただけで、ぼくとしては十分満足です。
ありがとうございました。

…でおわるというのも味気ないので、いろいろと。

じつは3Dメガネをかけて映画を見るのは、これがはじめて。
もともとメガネをかけていて、そのうえさらに、というので躊躇していて。
で、今回3Dしか選択肢がなかったので、やむをえず。

装着してみると、やはり重いです。
鼻と耳に、すこしばかり負担がかかる感じでした。
かといって、もとのメガネをはずしたら、ろくに見えなくなってしまうし。
いずれ度数調整可能な3Dメガネが開発されるのを、まつしかありませんね。

予告編を見るに、字幕がいちばん手前にうきでてくるのですね。
情報量がおおくなって、映像に集中できないかも…とおもって、
今回は吹替版にしてみました。
…いや、それは建前。
声優陣のかおぶれをみた瞬間に、これは吹替版だ!とこころにきめていたのです。

だって、かんがえてみてください。
上司が玄田哲章、
オペレーターが千葉繁、
トップパイロットが池田秀一、
博士が古谷徹&三ツ矢雄二。
こんなドリームチーム、めったにおがめるもんじゃありませんよ!
千尋じゃないけど「ここで働かせてください!」ってレベルですよこれ。

脚本がありきたりとか、人物描写がうすっぺらいとか、
そんなことはどうでもいいんですよこの際!
これだけのメンツがあつまって、
スーパーロボットと巨大怪獣の、血沸き肉踊る殴り合いバトルがみられて、
ほかになにをのぞむというんですか。

さて、そのバトルシーンですが、全体的に暗い。
夜中の、しかも大雨のなかでたたかうシーンが大半。
クライマックスは、光もとどかない深海です。
怪獣のすがたがぜんぶ見えてしまうよりは、
くらがりで見えにくいくらいのほうが、
より恐怖をかきたてられる、ということでしょうか。
あるいは、CGをつかう際のテクニックなのかもしれませんが。

雨天のなか、怪獣を下から見上げるあのアングル、たまらんです。
平成ガメラ3の京都決戦での見せかたですね。
ただ、バトルのテンポはメチャクチャはやいです。
「あれ、いまどうなった?」と、おいつけなくなった箇所が、じつはいくつか。
いわゆる「間」「タメ」というのは、あまりなかったかな、と。

怪獣の造形は、お世辞にも愛嬌があるとはいえず、かなりコワモテ。
一応、分類はされていますが、正直どれがどれだか。
その見分けのつかなさにも、ちゃんと理由があって、
全個体のDNAがおなじで、クローン培養された生体兵器だというのです。
しかもおたがいにリンク、並列化していて、
一体が戦闘でえた経験値を、ほかの個体も共有できるというすぐれもの。
(凶暴化したタチコマ、とでもいいましょうか)

怪獣の正体を知るには、怪獣と精神をリンクしてみるしかない。
そこで、ニュートン・ガイズラー博士(CV:古谷徹)が、
以前にたおした怪獣の脳とのドリフト(意識共有)を実験。
結果、上記のような怪獣の秘密を知ることができましたが、
「おたがいにリンク」なので、ニュートンの情報も怪獣たちのほうへ。

密命をうけて香港の街へでたニュートンですが、そこへ怪獣が上陸。
防護シェルターへにげこむも、その壁をつきやぶって怪獣が出現。
「あの怪獣はぼくを追っているんだ!」
腰をぬかしてうごけないニュートンに、怪獣の触手がちかづきます。
敵意をもった接近ではなく、むしろ興味をもってしらべているような。
(この触手、ガメラ3で前田愛にまとわりつくイリスのそれをおもわせます)

パンフレットより、尾崎一男氏の解説。

 人間を制圧し、地球を征服しようとする異界の種族によって、
 海底の暗い闇から送り込まれてくる怪獣たち。
 彼らはクローンという他者の意思によって望まぬ生を受けたあげく、
 侵略のための斥候として使われる哀しい立ち位置にいるのだ。
 
 そして彼らは地上ではスーパーロボット、イェーガーの手で迎撃の憂き目に遭う。
 ヒーローによって退治されるという、和製怪獣の宿命ともいえる悲劇の体現。
 怪獣たちは苦痛の叫びにも似た咆哮をあげながら、
 その感情は誰にもいっさい理解されない。
 唯一、両腕に怪獣のタトゥーを彫り、彼らを研究し精神融合を試みようとする、
 マニアックな愛情を示すガイズラー博士がいるが、彼はある意味、
 怪獣に寄り添おうとするデル・トロの分身と呼べる存在なのかもしれない。


だれかに知ってもらいたい。
自分のことを理解してもらいたい。
怪獣たちがニュートンに接近していたのは、
案外そういう、人間にも似た感情のあらわれなのかもしれません。

そうかんがえると、この世界の怪獣は、
単純に抹殺すべき悪の化身ではなくて、
かれらなりの存在理由がある、人類以外の種族といえるのかも。
ゴジラが、戦争や核実験へのおそれのメタファーであったように。

最後にデル・トロ監督が献辞をささげたのは、
そのゴジラをつくりだした、本多猪四郎監督。
そして、ことし5月に亡くなった、レイ・ハリーハウゼン監督。
ただのモンスターパニック映画ではなく、
このふたりが源流となる「特撮映画」の最新作である『パシフィック・リム』。
監督の日本へのラブレター、たしかにうけとりました。

こうなったら、まけてられませんよ日本。
「特撮博物館」の全国巡業もはじまったことだし、いまこそ特撮映画の復活を!
まずは日本のイェーガー、コヨーテ・タンゴをつかってスピンオフを。
大阪が舞台なら、イェーガーも楽勝でしょう(それ相手がちがう)。

…あ、そういえば、あの壁って『進撃の巨人』ネタ? \イェーガー!/

ピーター・ウェーバー監督『終戦のエンペラー』


終戦のエンペラー 陛下をお救いなさいまし (集英社文庫)終戦のエンペラー 陛下をお救いなさいまし (集英社文庫)
(2013/05/17)
岡本 嗣郎

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「河井先生はどこいった!?」

これが、観おわって最初の感想でした。
エンドロールがながれるや、「えーっ!ここからだろー!」と
さけびたくなったのは、ぼくだけじゃない…とおもいたいのですが。

夏季休暇をとったので、
おそくなったけど、きょう映画をみようとおもいたち、
原作となるノンフィクション、
岡本嗣郎『終戦のエンペラー〜陛下をお救いなさいまし』を、きのう買って、
ゆうべからけさのうちに読了しました。

原作は、2002年5月に単行本発行(その翌年に作者は他界)。
内容については、文庫版のウラの紹介文を引用します。

「第二次大戦終戦後、天皇の戦争責任が問われる中、
 連合国軍最高司令官マッカーサーに
 天皇不起訴を進言する覚書を提出した副官ボナー・フェラーズ。
 その際、彼が助言を求め、信頼した人物のひとりが河井道だった。
 敬虔なクリスチャンである河井は、
 平和を志す女子教育に情熱を傾ける教育家だった。
 戦後日本がたどる道を決定づけた二人の、
 運命的な出会いと絆を描くノンフィクション」


冒頭の「河井先生」というのは、上記の河井道のこと。
この原作の、まさに主人公といっても過言ではありません。
東京都多摩市にある、恵泉女学園大学の創設者として知られる人物です。
(ググったら、生稲晃子や国分佐智子も、短大の卒業生だそうですね)

原作は、作者の岡本氏が、
河井先生の教え子や関係者ら、存命のひとたちにインタビューをし、
その発言と資料をもとに、
河井先生がどのような人生をおくったのか、
学校での河井先生はどのようなひとだったのか、
フェラーズ准将とのかかわりはどのようなものだったのか、
事実と推論をくみあわせながら、ひもといていくというもの。

神職の父と、はたらき者の母にそだてられた河井道は、
函館のミッション・スクールで、あの新渡戸稲造にまなび、
アメリカ留学ののち、1929年に恵泉女学園(のち大学)を設立しました。

軍部が台頭する、戦争まっただなかの時代にあって、
講堂に「鬼畜米英」などのスローガンや、御真影は一切かざらない。
制服をきめず、生徒の自由な服装にまかせる。
憲兵隊や警察ににらまれようと、キリスト教の教育をやめない。
その一方で、天皇への敬意をはらい、傷病兵への救援物資をおくる。

「イエスとノーをはっきりいえる人間におなりなさいまし」
「結婚しようがしまいが、自分の足できちんとお歩きなさい」
「女が少しばかり学問に励んだからといって家事ができないなどというのは恥です」
「古いものの中に新しいものは求めていけるのです」


時代の最先端をいく教育家であり、伝統を重んじる日本女性。
かたくなすぎるほどのクリスチャンだけど、ユーモアはわすれない。
現実をしっかりと見すえながら、情熱だけでどこまでもつっぱしる。
わかりやすいカテゴライズができない、たいへん魅力的なキャラクター。
(これほどの豪傑なのに、注射によわいという萌え要素まであるとは!)

文庫版で350ページをこえる分量の原作を、
ぼくがほぼ一夜で一気に読んでしまったのは、
おそらく、この河井先生の魅力によるところがおおきいでしょう。

それなのに、ああそれなのに。
映画版には、河井先生のかの字もありゃしない。
これほどおもしろいキャラクターを消してしまうとは、どういう了見ですか。
60代のおばあちゃんじゃ、ロマンス劇のヒロインにならないってことですか。
やっぱり若い娘のほうがエエのんか。キレイなオネーサンが好きですか。
…あ、初音映莉子に文句をいってるわけでは決してないですよ、為念。

映画では、マッカーサーとともに来日したフェラーズ准将が、
通訳の高橋に行方をさがさせていたのが、英語教師のアヤ(初音映莉子)。
アメリカ留学中にフェラーズと出あってフォーリンラブ、という展開です。
史実では、フェラーズはなんとかして河井先生と話がしたいと、
アメリカ講演会ツアーで多忙な河井先生に、なんどもアタックしていたのですが。
(恋愛感情じゃなく、日本のことを知りたくて、そして敬愛の念をいだいて)

くわえて、戦前に来日していたフェラーズ准将が、
小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の作品に傾倒していたことや、
八雲なきあとの小泉家と懇意にしていたことも、バッサリカット。
もともとフェラーズ准将の日本観・天皇観は、
八雲の作品によるところがおおきいのですが、
そこをいれておかないと、ライバル?リクター少尉のいうように、
ホレた女のために日本びいきになった、とみられても仕方がない気もします。

ラブ要素をいれないと客がはいらない、という配慮からかもですが、
正直これは、いらなかったんじゃないのかなあ…。
とおもうのは、ぼくが日本人で、しかも原作を先によんだからでしょうか。

パンフレットより、奈良橋陽子プロデューサーいわく、

「基本的には日数の経過や当時の状況など全部史実に基づいています。
 フェラーズのラブストーリーに関しても、
 当時の日記に残された文章のニュアンスから想像するに、
 恋人に会いにきていたんだろうなあと想起できましたし。
 ですから、
 映画としてフィクションをむやみに膨らませたということはありません」


岡本嗣郎氏の原作にも、フェラーズ准将の手紙が引用(和訳)されていますが、
天皇不起訴工作に関するもの以外では、
GHQで神経すりへらして仕事をするのがしんどくて、
早くアメリカにかえりたいと、妻に弱音をはいているものや、
思春期のだいじな時期にまったく会えないでいる娘に、会いたいとねがう文面が、
内容としてはおおかったと見うけられました。

そりゃあ、ながく単身赴任でいたら、
現地妻のひとりくらい、つくりたくなるかもわかりませんが、
イヤイヤ不倫愛をそこまで前面におしだすのもいかがなものか。
と、ふりかえってみれば、フェラーズ准将に家族がいる描写はなかったような。
うーん、そこをかくすっていうのはどうかなあ…。
(終戦後にアヤは◯◯◯◯たから、結果的に不倫にはならないけれども)

あと、映画のながれでは、

・マッカーサー、フェラーズ准将に10日間での調査を指示
 ↓
・フェラーズ准将がマッカーサーに(天皇不起訴についての)覚書をわたす
 ↓
・マッカーサー、天皇本人と話ができるよう、フェラーズ准将に指示
 ↓
・マッカーサーと天皇の会見

となっていたのですが、これは史実に反します。
ただしくは、

・1945年9月20日、吉田茂外相が総司令部を訪れる
 マッカーサーに、天皇が訪問することについて、意向を打診
 「陛下のご都合のいい日に。ただ、アメリカ大使館のほうがいいかと」
 ↓
・1945年9月23日、フェラーズ准将と河井道、一色ゆり(河井の教え子)会食
 席上でフェラーズが、
「天皇の処遇について、マッカーサーへの意見書を書くので、目を通してくれ」と、
 河井に頼む
 ↓
・1945年9月25日、ニューヨーク・タイムズのクルックホーン記者が天皇に謁見
 記者「天皇は、真珠湾奇襲を事前に知った上で宣戦詔書に同意したのか」
 天皇「宣戦詔書をそう使うとは予期していなかった(=東條が独自にやった)」
 ↓
・1945年9月27日、天皇一行がアメリカ大使館を訪れる
 マッカーサーと天皇の記念写真撮影・会見
 同日午後、フェラーズ准将、意見書の草稿を恵泉女学園へ届けさせる
 ↓
・1945年9月29日夜、フェラーズ准将と河井、会食
 河井、草稿の添削内容を伝える(内容は不明)
 ↓
・1945年10月1日、フェラーズ准将、手直しした意見書を恵泉女学園へ届けさせる
 河井、OKを出す
 ↓
・1945年10月2日、フェラーズ准将、マッカーサーに覚書を提出
 クルックホーン記者への天皇の回答を引用、天皇不起訴を進言

となります。
このあたりは、映画のながれとしてうまくおさまるように、
脚本で改変されたのではないでしょうか。

・主人公(フェラーズ准将)にミッションがいいわたされる
 ↓
・相棒(通訳高橋)とともにミッション開始
 はじめはうまくかみあわないふたり
 ↓
・壁にぶつかり(証拠がみつからない)ミッションをあきらめようとする主人公
 ↓
・相棒がきっかけでやる気復活、ミッション再開
 ↓
・ミッション完了
 上司(マッカーサー)から認められる
 相棒とうちとける

こういうながれが、教科書のようにしっかりとできています。
よくできたバディ・ムービーといいましょうか。
この土台となる生地のうえに、お客さんの目をひくような、
おいしいクリーム(ラブ要素)をまぶして、ケーキ(映画)をつくったと。
最後は主人公の主張がとおって、ハッピーエンド。

お客さんが、感情的には「よかったよかった」と満足するとしても、
昭和天皇の戦争責任についてとか、
日本の歴史における天皇と行政府の関係とか、
日本兵がなにをもって名誉とするかとか、
そういうところは、ホントにつたわるものなのでしょうか。
原作本の271ページより。

 その情緒の部分、日本人の心情にわたる文学的表現が、
 学者肌のフェラーズの面目であると同時に、
 河井の助言をあおいだ部分に違いないという気がする。

 なぜならフェラーズが、天皇をいかに概念的に理解しようと、
 日本人の心情のひだに生きる天皇という存在の微妙さは、
 アメリカ人の彼にはついに手の届かない領域だと思うからだ。


対日心理作戦の指揮をとるほど、日本に精通していたフェラーズ准将であっても、
河井道に、何度も天皇について質問をなげかけています。
膨大な時間をかけて、やっとフェラーズ准将が結論づけた内容を、
2時間たらずの映画だけで、心から理解できるとは、かんがえにくいところです。

ですから、この作品は、あくまでも、
歴史を知ろうとするきっかけづくりになれば、とおもいます。
「あれはどういうことだったんだろう?」という疑問を、
映画館からかえったあとで、じぶんでしらべてみるための、とっかかりとして。
とはいえ、やはり河井先生がでてこないのは、おしいなあ…。

以下、感想あれこれ。

◯終戦直後の東京を再現した美術がすごいです。
 さらに、皇居周辺の撮影は、映画としてはじめてとのこと。
 …あれ?『太陽を盗んだ男』で皇居前広場にバスがつっこんだシーンが…。
 あ、あれは無許可でしたか。

◯昭和天皇役は、片岡孝太郎。
 うしろすがたの第一声をきいたときは、鳥肌がたちましたね。
 たちふるまいもふくめて、さすがの演技です。

◯関谷貞三郎役、夏八木勲さんのすがたに涙。

◯近衛文麿(中村雅俊)がフェラーズ准将に対峙していうセリフ、
 「日本はあなた方をお手本にしただけです。なにが違いますか?」
 このあたり、アメリカ人の観客はどう見るのでしょうね。興味があります。

◯東條英機については、あまりふかくはふれず。
 ぼく個人としては、フェラーズ准将が米内光政に、
 「東條に全責任を負わせろ」と指示した、1946年3月6日が、
 映画のクライマックスになりそうだとおもうのですが…。
 で、弁護人を通じてそのかんがえを知り、
 「陛下を守るために陛下を裏切る」意志をしめす東條、と。

◯『日本のいちばん長い日』クーデター話キター!
 あれはもう、あの映画をそのまま引用してもよかったのに!
 「陸軍の狂信者」というなら、黒沢年雄や天本英世の怪演を見せたいですよ。
 あと、阿南大臣がちょっとものたりない。
 やはり『日本の〜』の三船敏郎ばりのカリスマがほしいところですね。

まとまりませんが、このへんで。
ともあれ、河井先生を主人公にした映画を、だれかつくりませんか?
これほどのおもしろい存在をほったらかしとくなんて、もったいない!
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