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Cut 9月号「宮崎駿は、なぜ、はじめて自分の映画に泣いたのか?」


Cut (カット) 2013年 09月号 [雑誌]Cut (カット) 2013年 09月号 [雑誌]
(2013/08/19)
不明

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Cut恒例の、渋谷陽一氏による宮崎駿監督インタビュー。

前回とりあげた、半藤一利氏との対談では、
おたがいに敬愛の念をもちながらの、ゆったりとした展開でしたが、
今回はそういうムードには、とても見えません。
なんとかしてホンネのことばをひきずりだしてやろう、という渋谷氏に、
「あいかわらずだなこのヤロウ」なんて、内心毒づきながらだったのかも…?

―この映画の画期的なところは、初めて宮崎駿が自分を主人公にしたところなんですよ。ものすごくリアルに。堀辰雄だけでもダメ。堀越二郎だけでもダメ。表現者であり生産者である宮崎駿を主人公に設定しないと―。
「渋谷さんは、はじめからこういうテーマを持って来ましたね? 今日」
―そうです。
「そういうふうなものの見方をするのはね、鈴木さんを含めて、同じ世代はみんな好きなんですよ。大体わかりましたよ。はい、どうぞ(笑)」

―この映画を観た時の僕の最初の感想は、「ああ、宮崎さんは第二のデビュー作を作ったんだなあ」という。
「デビューなんかしてませんよ。あたしゃ幕引くためにやってるんですから」
―これで第二の処女作を作ったんだ、と。
「そりゃ不愉快ですよねえ! 僕は一生懸命、今まで作ってきたんですから。アニメーションの現場ってのはそういうもんじゃないですよ」


この対談、かなうならライブで見たかった!
たいてい作品のプロモーションの場では、
出演者やスタッフへのリスペクトやらなんやらを笑顔ではなすのが相場ですが、
ときに漫才のようなツッコミ、ときにケンカ腰になりながら、
ほかの媒体ではみられない表情やことばがでてきます。
ここまでできるのはやはり、ながいつきあいのふたりだからでしょうね。

そのながれで、渋谷さんはご自身がたてた仮説、
「宮崎監督は◯◯のシーンで泣いた」を、本人にぶつけてみるわけですが、
(それは主人公=宮崎駿だから、という前述の説につながります)
そのあたりのことは本文を読んでいただければ。

このインタビュー記事、すべての発言を引用したくなるほど、
おもしろいはなしがいっぱいなのですが、
とくに印象がつよかったポイントが、ぼくにはふたつありました。
ひとつは、

「…本当になんかやろうとする人間はね、でかい声で叫ばないですよ。そう思いませんか? 人間の脳味噌のなかなんか、覗けないですよ。そんなの顔見たってわかりゃしないんです」

(映画の)堀越二郎の言動についてかたったものですが、
ここを読んだ瞬間に、ストーン!とおりてきたのには理由があって。
ツイッターやブログで、過去になんど引用したかわかりませんが、
細野晴臣『文福茶釜』(2008年)で、ぼくがいちばんすきな文章がこれ。

(p110〜111)
こないだある言語学者が、テレビですごく大事なことを言っていたので、つい聞き耳を立てて聞いちゃったんだけど、
「本当のことは小さな声でひそひそ語られる」と言ってた。
常々ぼくもそう思ってた。
実は人びとにいっぱいに聴かせるような音楽は好きじゃないんだ。
(中略)
音楽も、演説も、アジテーションも、とにかく大きな音は空しいんだよ。


デカいこえでダダをこねるヤツが得をする、きょうこのごろ。
政治家やら学者先生のはなしだけじゃない、
たくさんながされて、たくさんきかれるから、すばらしい音楽だとされることも。
そういうことじゃないだろうと。

「本当のことは静かに聞こえる」。
(映画の)堀越二郎も、やたらとこえをあらげるような人物ではありません。
むろんそれは、中の人=庵野秀明監督のもつ性質もあるでしょうし、
それをもとめた宮崎監督のディレクションもあったでしょう。

「これだけ映画の宣伝がながされているのに、なにをいってるんだオマエは」
と反論されれば、それまでのはなしではありますが。
とはいえ、デカい(だけの)こえにながされてしまわないように、
このことばを、いまいちど反芻しておく必要があるな、とおもったのです。

もうひとつ、印象にのこったのは、

「でもね、『風立ちぬ』っていうのはどういう風かというのは、原発が爆発したあと、轟々と風が吹いた時に、僕は2階で寝転がってて、木がうわーって揺れてるのを見てて思ったんだけど、『風立ちぬ』っていうのはこういう風なんだ、と思ったんです。それで線量計を買って、今保育園でどれだけ線量が出てるか測るとか、そういうことをやりながら。『風立ちぬ』はさわやかな風が吹いてるんじゃないんだっていうね。轟々と吹くんです、恐ろしい風が。だから生きようとしなければならないんだっていうことなんだなあ、と、現実に思い知らされたんですけどね」

あのさわやかなポスターの印象がつよいですが、
映画のなかみが、決してさわやかだけのものではなかったことは、
鑑賞されたかたは、重々承知のことでしょう。

いまぼくたちにふきつけている風は、
現実には、放射性物質に汚染された水がいまなお流出しつづけている、
福島第一原発を通過してながれてくる風であり、
比喩的にいえば、その原発事故への反省も、被災者の救済もできていないまま、
なしくずし的に原発再稼働へとむかっている風潮、でもあるでしょう。

その風をうけながら、風にながされず、生きていくということ。
それはまさに、半藤一利氏との対談でも話題になった、
夏目漱石『草枕』の、あの一節のようなものでもあります。

 智に働けば角が立つ。
 情に棹させば流される。
 意地を通せば窮屈だ。
 とかく人の世は住みにくい。


風立ちぬ。いざ生きめやも。
おおきなこえにながされる生きにくい世のなかで、それでも生きていく。

記事をよみながら、ぼくのあたまのなかにうかんできたのは、
この『草枕』…だったらキレイにおさまるのでしょうけれど、
実際には、筋肉少女帯や絶望少女達…大槻ケンヂの詞の世界でした。

 戦え!何を!?人生を!
 (戦え!何を!? 人生を!)

 僕ら ガタガタ震えてタチムカウ ビクビク怯えてタチムカウ
 (タチムカウ〜狂い咲く人間の証明〜)

 さあ行こうぜ 絶望のわずかな「こっちがわへ」
 (林檎もぎれビーム!)

 それでも生きていかざるをえない!
 (踊るダメ人間)


まさかここに着地するとは、じぶんでも不思議なおもいです。
筋少に興味をもったのは、ほんの数年前だというのに…。
それはつまり、こういうことばを、いまじぶんが欲していると。
いまのじぶんに必要なことばが、これらだったということでしょう。

「風立ちぬ。いざ生きめやも」=「それでも生きていかざるをえない!」

いいのかなあ、この結論で。
ま、「これでいいのだ!」ということで。
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