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坂本龍一・中沢新一『縄文聖地巡礼』


縄文聖地巡礼縄文聖地巡礼
(2010/05/24)
坂本 龍一、中沢 新一 他

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いまやニコニコ動画でも「反原発活動家」とコメントされる教授ですが、
(たしか「君に、胸キュン。」のPVだったかと)
急にそういうスタンスになったわけではありません。
福島原発事故のまえから、すでに反原発の立場を鮮明にしていて、
「ストップ・ロッカショ」「おやすみなさい、柏崎刈羽原発」など、
ミュージシャン以外のひとたちと連携して、活動をおこなってきました。

本書は『ソトコト』での連載で、
日本各地の縄文的世界を教授と中沢氏とでたびし、その地で対談したものです。
そのなかで、美浜原発を有する敦賀・若狭にいったときの回の、教授の発言。

(p66)
とくにあの美浜原発は、ぼくには衝撃的だったな。
負のパワーっていうのか、
ビジュアル的にもそういうものを感じさせるデザインでした。

原発には、本来の意味でのサクリファイスがない。
自然からエネルギーを強奪して消費するだけで、人間からは贈与しないんだから。
非対称なんですね。

(p69)
やっぱり自然からいただいたんだから、
こちらからも自然にお返しするのが基本でしょう。
原発なんてつくってしまって、
大変な負を自然に与えてしまっているんだから、
ものすごくお返ししないとバランスがとれないじゃないですか。


雑誌連載は2006年〜2008年。
単行本の刊行が2010年5月。
これをよんでいたので、3.11後の教授の言動もしっくりきています。

さて、ふたりはいくさきざきで、その地の縄文土器をまぢかにみるのですが、
「縄文」ということばでひとくくりにするには、どうも無理があるようです。
まず、長野県の諏訪地方でみた縄文土器。

(p33)
中沢 ところで、諏訪に来てからずっと蛇ばっかり出会ってきたでしょう。
縄文土器にしてもミシャグチにしても。
諏訪大社にも、蛇のようにとぐろを巻いた縄を祀ってあったし。
坂本 蛇づくしでしたね。
ここは古代の思考法がそのまま残ってる。
土器に描かれたことって、
たぶんかつては具体的に儀式としてやっていたんじゃないかと想像させます。
中沢 諏訪は蛇の国。蛇は生と死、再生の象徴。


つづいて、福井県立若狭歴史民俗資料館に陳列している縄文土器。

(p58〜59)
中沢 若狭の鳥浜貝塚から出土した縄文土器は、
様式的にも京都の北白川下層式とつながりがあるみたいだけど、
土器が関西弁をしゃべっているような印象だった。
坂本 きれいだよね。
審美的というか、そういうことに神経を使ってる。
中沢 今回、博物館へ行って驚いたけど、
東や北のゴテッとした土器とちがって薄手で洒落てる。
ぼくらが使ってる陶磁器なんかよりずっとデザインとして優れてるし(笑)。


そして、鹿児島県立ふるさと考古歴史館の縄文土器。

(p125)
中沢 …縄文草創期から早期の土器を見て、その完成度に驚きました。
弥生時代に見られる壺形土器が、南九州では縄文早期からつくられていたりして、
プロジェクトが最初から一気に高い完成度に達していたようですね。
坂本 縄文土器といっても、このあたりの土器は、貝殻で文様をつける貝殻文ですから、
関東や東北の縄文土器のイメージとは、かなりちがいますね。
中沢 東のほうからときどきブームとして縄目の文様も入ってきてるんですよね。
だけど結局、もとの貝殻文に戻っちゃう。
「よかねぇ」なんて言いながら、使わない(笑)。
坂本 外から来るものを拒まずに、受け入れるんだけど、
自分たちの感覚のほうを優先するっていう気質なんでしょうね。


おなじ「縄文土器」というカテゴリなのに、その性質はまるでちがっています。
学校の歴史の授業では、ただ「なわで文様をつけた土器」としておぼえましたが、
ひとまとめにしてしまうと、こうした各地のちがいに気づきません。
その当時から、日本という統一国家があったわけでは、決してないのに。

列島各地に、それぞれの部族のくらしがあり、
そのなかでかれらの気質にそうかたちで、日常につかう土器がつくられていった。
各地の文化は、その地域のなかだけで完結しているのではなく、
よその地方、よそのクニからおとずれるひとによって、じわじわと変容していく。
もし、そのときのひとのうごきがちがっていたら、
いまあるその地の文化は、ちがったものになっていたかもしれません。

(p173)
中沢 ぼくらがなぜ縄文文化に感心をもつのか、縄文の旅を続けるのかというと、
新石器文化がもっていた可能性を考えたときに、
現在あるような方向性ではないものがあり得たということが、
手につかめる感触として日本列島のなかに残っているからなんですね。
坂本 人類はいまぼくたちに見えている文明へと必然的に至ったわけじゃなくて、
ほかの可能性もあったわけで、
その可能性をいまとり出してこないと、デッドエンドになるぞという
危機感がありますね。


歴史は、一直線に、必然として、いまここにいたったのではない。
さまざまな偶然や選択肢をたぐりよせ、きりすて、その結果がいまここだと。

ここで教授が、音楽を例にしてだしてきたキーワードが、
線形(リニア)」と「非線形(ノンリニア)」。
ひとつのパターン・おなじ原理の反復・くりかえしですすむのが、線形。
反復をうちこわす、偶然性をとりこんでかたちづくるのが、非線形。

教授のなかには、数理(を記した楽譜)によってつくる西洋音楽の要素と、
「偶然性の音楽」をつくるジョン・ケージらの要素の、ふたつがあるといいます。
そしてこのころの教授は、「非線形の音楽をつくりたい」と発言しています。

(p113)
庭のような音楽をつくろうと思って。
庭っていうのは、雨が降ったり、カエルが鳴いたり、ものすごく複雑なんですよ。

非線形なんですよ。
生命種が生まれては死に、生まれては死にを繰り返しながら、
それでも庭のかたちは続いていく。
菌類もいっぱいいて、つねに動き変化している。


このときの教授の構想がかたちになったのが、2009年の『out of noise』でしょう。
さらに近年のライブでは、インプロヴィゼーション(即興演奏)がふえました。
どういう展開になるか、事前に予想しえない。
客席のいきづかいや、せきこむこえですらも、音楽の一部となるような演奏。
反復構造からはうみだせない、非線形の音楽です。

こうしてみると、教授の音楽というのは、
ただ音源を購入してきくだけでは、すべてを理解できないような気がします。
といういいかたは、ちょっと正確ではないかも。
音楽にみをゆだねるだけでも充分におもしろいのですが、
そうした音楽をつくるにいたった経緯を、音楽以外の言動からしるたのしみというか。

教授がつくる音楽と、環境問題に関する活動とは、
決して別々のものではなく、地つづきのものなのだと、
この本をよんで、おもいいたりました。

それともうひとつ、オルタナティヴの方向性をきりすてないことも。
いまの生活様式、エネルギーのありかたは、歴史の必然だったと断言できるのか。
ちがう方向へむかう可能性が、ねむっているのではないか。
まだこの本を完全には整理できず混沌としていますが、
かんがえをまとめるためにも、じっくりよみかえしたいなと。

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