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オリヴァー・ヒルシュビーゲル監督『ダイアナ』


ダイアナ 最後の恋 (竹書房文庫)ダイアナ 最後の恋 (竹書房文庫)
(2013/09/26)
ケイト・スネル

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上記の本は、関係者へのインタビューをもとにして、
おもに1995年〜1997年のダイアナのすがたをつづったノンフィクション。
それをベースにして映画化されたのが本作となります。
監督の作品風にタイトルをつけるなら、
『ダイアナ〜最期の2年間〜』となるでしょうか。

そう、監督は『ヒトラー〜最期の12日間〜』のオリヴァー・ヒルシュビーゲル。
ドイツにおいて、「人間」アドルフ・ヒトラーをえがきだした、あの監督です。
いまやニコニコ動画では「総統閣下シリーズ」として有名で、
映画本編も何度か生放送がおこなわれています。
(例のシーンだけはプレミアム会員のみ、という抜け目ない運営…)

地下においつめられたナチス幹部と兵士たちの閉塞感・絶望感が、
映画全体にただならぬ緊張をもたらしていた『ヒトラー』。
息がつまるほどにせまくるしい、あの地下通路が、
『ダイアナ』では、冒頭とラストで反復されるホテルの廊下となりました。

1997年8月31日。
ドディ・アルファイド氏と一緒にホテルを出るため、支度をしているダイアナ。
携帯電話をチェックするも、声がききたいあいてからの連絡はなし。
その携帯を部屋においたまま、廊下に出てエレベーターにむかいます。
途中、なにか予感があったのか、一瞬うしろをふりかえるダイアナ。
(オープニングでは、ダイアナの顔をうつさないようなカットにして、
 反復されるラストでは、しっかり表情をフォローしているのがうまい)

ここからはなしは2年前、1995年にさかのぼり、
ダイアナ最期の2年間をえがいていきます。
ストーリーは、恋人ドディとの恋愛模様…ではまったくありません。
あの有名な、水着すがたのキスをスクープするシーンもありますが、
ケイト・スネルの著作では、あれはスクープ「された」のではなく、
ダイアナがカメラマンを利用してスクープ「させた」解釈となっています。

(p267)
すなわち、クルーズも最後に近づく頃には、
ダイアナもドディも状況を十分に把握していたということだ。
つまり、二人とも自分たちの関係を世の中に見せびらかしたがっていたわけだ―
ただし、まったく別の理由で!
ドディは自分が世界一有名な女性と付き合っていることと、
父親の望みを叶えたことを世間に自慢したがっていた。
そしてダイアナは、まったく別の個人的な理由から。


(p268)
つまりダイアナには、明らかにこれらの写真を撮らせる動機があったのだ。
タイミングから考えて、その理由はひとつしか見当たらない。
ハスナット・カーンの本音を引き出し、彼を取り戻すことだ。


ハスナット・カーン氏。
いまも現役の外科医としてはたらく、ダイアナのかつての恋人。

世界一有名なセレブリティの女性と、医療現場ではたらく仕事熱心な一般男性。
彼女は、自分にむけられる好奇の視線と、ときにたたかい、ときに利用し。
彼氏は、目立たず平凡に生活したいだけで、その視線にはたえられない。
たがいに尊敬し、理解し、つよく惹かれあっているのに、
彼女がプリンセスであるというそのことが、おおきな壁となってたちふさがる。

あらすじだけよめば、どこにでもあるベタな少女マンガのような展開ですが、
これがホントにあったことだというのだから、事実は小説より奇なり。
ホレた男のために、もてなし用の料理をおそわったり、
ふだんはまったくきかないジャズ(ハスナットの趣味)について勉強したり。
このまますぐにアニメのヒロインになれそうです。

病院で出あってからずっと、ダイアナはハスナットに一途で、
それは(おそらく激情に駆られて)わかればなしをしたあともかわらず。
一回破局しただけで、恋愛マンガが最終回になるはずありませんものね。

あいてのこころをもう一度じぶんにむけさせるには、
つよい嫉妬心をおこさせることが必要であり、
そのためのいわばアテ馬がドディであった、ということになります。
好きな男をふりむかせるためなら、
じぶんを好きな男も、むらがるマスコミも、いくらでも利用するぞ、と。

車の窓ガラスをバンバンたたいて、ダイアナの顔を出させようとしたり、
ハスナットに会いにいった深夜の病院で、勝手にダイアナの写真を撮ったり。
クルーザーでくつろぐダイアナをねらうカメラが、
アングルによって、まるで大砲の筒のように見えます。

前述のスクープ写真を撮らせるために、みずから情報をリークしたほか、
記者から携帯をとりあげて、上司と直接ハナシをつけるなど、
ながくマスコミと対峙してきたダイアナは、あしらいかたもさすがです。
しかし、カメラのまえでは堂々とうけこたえをしていても、
そこから解放されると、つかれた表情を見せたり、
一個小隊のようなカメラの集中砲火にあってショッピングもままならず、
ダッシュで逃げだしたりする描写もあります。

一連のマスコミやパパラッチとのシーンでおもいおこされたのが、
藤圭子さんが亡くなったあとの、宇多田ヒカルさんに対するマスコミの問題でした。
ご本人のツイートはTogetterにまとめられていますが、
「宇多田ヒカルさんがつぶやいたメディアスクラムの実態」
こうした問題は洋の東西をとわず、いまもかわっていないのですね。

他人のプライベートをのぞき見したいというデバガメ根性が、
じぶんにはない!といいきれるものでは決してありませんが、しかし、
だれがぼくのくだらない根性の代役をアンタにたのんだよ、ってハナシです。
メディア自身が「彼女の私生活をぜんぶのぞきたい!」と宣言するならともかく、
勝手にぼくの代弁者になってくれるなよ。

ちなみに実在のハスナット氏は、マスコミへのインタビューには一切応じず、
本作の脚本コンサルタントを依頼されても、ことわったとのこと。
愛するひととの記憶を、黙して語らず。
そうしたひととなりに、ダイアナも惹かれたのでしょう。

最初にふれた、あの豪華なホテルの廊下が、せまく息ぐるしく感じたのは、
ハスナットとの関係がいきづまっていることもあったでしょうが、
ホテルのまえでまちかまえているマスコミからのプレッシャーも原因でしょう。
即興・機転・ユーモアで対応しながらも、いまにもおしつぶされそうなそのすがた。

メインはあくまで、ダイアナとハスナットの秘められた恋愛ですから、
デートムービーとしてもちゃんと機能しているとおもいます。
と同時に、こうしたマスコミスクラムの問題についてかんがえたり、
地雷廃絶キャンペーンなど、彼女の人道支援活動をふりかえったりもできますね。

そうそう、地雷廃絶キャンペーンといえば、
ダイアナの死の4年後、2001年に日本では「地雷ZEROキャンペーン」があり、
キャンペーン・ソング「ZERO LANDMINE」制作を主導したのが、
ワーナーミュージック時代の教授、坂本龍一氏でした。

TBSでのスタジオライブでは、演奏に細野晴臣・高橋幸宏両氏も参加し、
「おおお、YMOだ!」と興奮したのをおぼえています。
この共演にいたるまでの、3人の複雑な心境を知るのは、もっとあとになってから。
ああ、このダイアナの活動がここにつながってくるのか…と、
個人的にもグッとくるところのある作品でした。

…えっ、吹替版には、てらそままさき!飛田展男!二又一成!
しまった、それならそっちでもよかったか…。

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