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上杉隆・烏賀陽弘道『報道災害【原発編】』


報道災害【原発編】<br>事実を伝えないメディアの大罪 (幻冬舎新書)報道災害【原発編】
事実を伝えないメディアの大罪 (幻冬舎新書)

(2011/07/28)
上杉 隆、烏賀陽弘道 他

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孤独な二人である。

巻頭に書かれた、対談構成の畠山理仁氏のことばが、両者を的確にあらわしています。
メディアの場において、おのれの信念をつらぬくがゆえに、
異端者であることを余儀なくされるふたり。

独特のユーモアにその信念をつつみこんで、孤独なたたかいの日々をおくるふたりに、
ある者は「すばらしい、がんばってください」と声援をおくり、
ある者は「ふざけるな、まじめにやれ」といかりのこえをあげ、
ある者は「インチキ、デマ野郎」とただ罵詈雑言をくりかえす。

このふたりは、見ているじぶんたちのすがたをてらしだす、鏡なのかもしれません。
じぶん自身が、メディアに対してどういう態度で接しているのか。
あふれかえる情報、とどかない情報、それらをどうあつかっているのか。
かれらにふれることで、じぶんの立ち位置が見えてくるのではないでしょうか。

本作は、4〜5月におこなわれた対談をまとめたものです。
重点は、福島原発事故それ自体よりも、タイトルの「報道災害」。
「政府・東電の情報隠蔽に加担した記者クラブ報道の罪」(裏表紙より)にあります。

上杉氏は、かねてより記者クラブ報道の弊害について警鐘をならしており、
2011年1月より「自由報道協会」の暫定代表として活動しています。
烏賀陽氏は、朝日新聞社の記者として「AERA」などを担当したのち退社、
それまでのいきさつを『「朝日」ともあろうものが。』に書いて朝日を批判しています。

ふたりのはなしは、かねがねイベントのUST中継で拝聴していました。
本作では、そうしたはなしをまとめてくれています。
イヤ、時期的にいうと、イベントではなす内容の元原稿というべきでしょうか。

(p138〜139)
烏賀陽 彼ら(記者クラブ、引用者注)の世界では長い間、自分たちがニュースの流通を独占してきた。だから自分たちが「無いこと」にすれば、今までは「存在しない」ことになっていた。
上杉 なっていたんですよねぇ。報じないことが権力だった。それがいつものパターンなんですよ。でも、こっちは無いことにされるのは慣れていたから。畠山さんじゃないけど、椅子以下の存在だもんね。
烏賀陽 インターネットが一番すごいのは、「彼らが何を報じなかったのか」を見せちゃったところだと思うんだよね。
上杉 そうそう!
烏賀陽 「彼らは何を報道してなかったのか」がわかった瞬間、みんなもう以前には戻れなくなった。それが大きいと思う。


いまぼくは、政府閣僚の記者会見などは、ニコニコ生放送で見るようにしています。
NHKや民放でもありはしますが、冒頭演説がおわったらスタジオにもどるなど、
会見の最初から最後までのすべてを見ることはできません。
どこの記者が、どんなことをきいて、あいてはなんとこたえたのか。
ニコニコ生放送(あるいはUST)ならば、それがすべてつつぬけになります。

マスメディアの編集にたよることなく、あいてがどういうかんがえをもっているのか、
もっといえば、マスメディアの人間がどういう記事をかきたいのかまでも、
この「ダダもれ」状態によって知ることができます。

(p224)
上杉 僕は最近、記者クラブシンドロームって言い出したんですけど、要するに「同じ考えが安全だ」と考えていると安心だし、自分たちもそれに対して思考停止することができる。つまり、ゆるい世界にいられるわけですよ。
烏賀陽 英語でそれを「ユニフォーム・メンタリティ」と言います。制服的なメンタリティ。ユニフォームって、もうひとつは画一性とか均一性っていう意味です。日本人は10代のかなりの間、制服を着て過ごす。オトナになったら同じようなスーツを着る。そういう行動や思考を皮肉って「ユニフォーム・メンタリティ」という。まさにそれなんですよ。そこから生まれた言論は「均一なこと」を価値として発想してしまうんです。
上杉 マスコミの報道も同じですよね。だから結局はそれが報道災害を生むんでしょうね。確かに横並びで同じものを作っているほうが安心感はあるわけですよね。産経と一緒だ、朝日と一緒だ、オレは大丈夫だ、と。海外のジャーナリストは逆です。同じになると「やばい、同じになっちゃった」と、必ず書き直しますから。
烏賀陽 残念ながら日本は違います。今回の震災報道を見ても、別々の新聞社が、全く同じネタ、同じ写真をほぼ同じ日に載せる、というパターンが延々と続いている。僕が現役の新聞記者だった頃にそんなことは許されなかった。他者の新聞を見て、同じ写真が載っていたら、すぐに取り換えていたものです。「そんなのは恥ずかしい」という意識が、まだあったんです。それが今は全くなくなってしまった。


あれだけ各社の記者がいて、結局おなじ内容しか報道しないんだったら、
「もう代表1社だけにしてしまえ!」などとつい暴論をはきたくなってしまいます。

おなじ事実を見ても、立場がちがうことで異論がうまれてくる。
それらをくらべることによって、情報のうけてがじぶんのあたまでかんがえる。
その多様性こそが、メディアにもとめられているはずです。
大本営発表という愚行は二度とくりかえしてはいけないと、だれもが知っているのに、
気がつけば、その大本営発表が21世紀によみがえっています。

どれだけのひとたちに、このふたりの、イヤ、畠山さんもいれて3人の、
既存メディアに対する絶望が、かなしみが、いかりが、とどいているのでしょう。
のれんにうでおしというか、虚空をたたきつづけるような徒労感を感じているはず。
それでもかれらはまだ、あきらめきってはいません。

かれらほどの取材能力も知識ももちあわせてはいませんが、
せめて、こころざしをおなじくして、マスメディアに相対したいものです。

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