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マリアン・デレオ『チェルノブイリ・ハート』


チェルノブイリ・ハート: 原発事故がもたらす被害の実態チェルノブイリ・ハート: 原発事故がもたらす被害の実態
(2011/09/09)
マリアン・デレオ

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そういえばまだ、この映画を見ていなかったのでした。
見なければとはおもうのですが、ただ…生半可なきもちでは見られないのでしょう。

本書は、監督じしんの筆による、映画のガイドブック。
使用された映像のスチルもあるのですが、おもわず目をそむけたくなるものも。
ですが、これが現実なのだから、知らぬふりはできません。

おおきくは、映画のながれにそって書かれています。
小児科病院にいる、なおる見こみのない病気をかかえたこどもたち。
ひとりだけではなく、うつしだされるこどもたちがすべて。
これはつらい。実際の映画を、ぼくは正視できるのだろうか…。

もっとも印象にのこったのは、監督の身におこったできごとです。
チェルノブイリ爆心地周辺の撮影がおわり、取材スタッフたちは、
ミンスク放射線研究所で、被曝した放射線量の検査をおこないました。
まわりのスタッフたちが、放射能が検出されずガッツポーズをするなか、
検査がおわった監督に、医師がつげたことばは…。

(p75)
「あなたの体内には、放射性物質セシウム137があります」

おなじところに行き、おなじものを食べ、おなじ空気をすった。
それなのに、監督ひとりだけにセシウムが検出されたのです。

(p77)
何か自分に落ち度があるような、そんな気になった。

もっと体力をつけていれば、
撮影中に防護マスクをはずさなければ、
あのジャガイモさえ食べなければ、
もっと予防用のペクチンを飲んでおけば……。
体内にセシウムが入るのを食い止められたかもしれない。

自分が恥ずかしくなった。情けなくなった。

駆け寄って「心配ないよ。きっと大丈夫さ」と声をかけてくれる人など、
ひとりもいない。
そこには隔たりがあった。
持てる者と持てざる者の隔たり。
この場合、持てる者になることは好ましくない。
いまや部屋の中では、目に見えない、色も匂いもない無言の声が、語っている。

「ボクじゃなくてよかった。
 でも、よりによってキミがこんな目に遭うなんて、ひどい話だ」


取材対象が、自分じしんになってしまったわけです。
この感情の記述はほかにない、リアルそのもの。
日本で線量検査をうけているひとたちも、これに似たきもちなのでしょうか。
そして、その周辺にいる、ぼくたちのきもちも。

(p79〜80)
しかし、今回の経験で、私は疑いなく「隔離感」について学んだ。
病気、離婚、失業、テロなど他人が何らかの不幸に遭遇すると、
私たちの生存メカニズムが作動する。
人は、そうした他人と距離を置く。
接近しすぎないようにする。
自分たちは「そうなりたくない」。
だから、私たちは彼らを隔離する。

いちばん勇気ある行動は、それらの不幸に立ち向かうことなのに、
なぜか私たちは一歩引いてしまう。
不幸を認めたくないのだ。

前に出ること、中に踏み入ること。
それが他人のため、ひいては自分たちのために役立つ方法なのだ。


見たくないから見ない。
聞きたくないから聞かない。
知りたくないから知ろうとしない。
それですませてきたことが、ぼくじしんにもなかったわけではありません。

しかし、いまとなってはもう、それでは通用しないのでしょう。
見るべきものを見る。
聞くべきことを聞く。
知るべきことを知ろうとする。

監督はドキュメンタリー映像作家だそうですが、
おそらく常人以上に見たい、聞きたい、知りたい欲求のつよいひとではないかと。
だからこそ、じぶんの内面ですらも、みずから記述することによって知ろうとする。

目のまえのことを、ひるまずに、ゆがめずに、まっすぐとらえるつよさ。
いま、ぼくがなによりほしいものです。

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