スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

『ROCKIN' ON JAPAN 特別号 忌野清志郎 1951-2009』


忌野清志郎1951-2009忌野清志郎1951-2009
(2009/06)
不明

商品詳細を見る

日本各地の脱原発デモで、かならずといっていいほどうたわれるのが、
RCサクセション「サマータイム・ブルース」です。
いまさら説明の必要もないでしょうが、1988年『COVERS』収録曲。
エディ・コクランの原曲をザ・フーがカバー、さらにRCの日本語版となりました。

寒い冬がそこまで来てる
あんたもこのごろ抜け毛が多い
それでもTVは言っている
「日本の原発は安全です」
さっぱりわかんねえ 根拠がねえ
これが最後のサマータイム・ブルース


発表から23年。
いまや、斉藤和義「ずっとウソだった」とならぶ、デモの定番曲です。
「いらねえ」の文字がおどるキヨシロー顔のTシャツやうちわも、よく見られます。
あのころのキヨシローは、ここまでこの曲が生きながらえているのを、
どう見るでしょうか。

本書に収録された、当時の単独インタビューより。

(p65)
「まあコンセプトだからね、反戦であろうと反核であろうとね」
◯気持ちはわかるんですけど、ほとんど論理的な整合感はないですね。
「そんなもんなくたっていいじゃん、歌なんだから(笑)。
 どうせ3カ月しかもたないんだからレコードなんて(笑)。
 もって3カ月だよ。1カ月だよ、もう最近なんか。
 いくら新譜出して騒いでもさ、すぐ忘れちゃうんだみんな」


茶化してしゃべっていますが、あるいは半分本気だったのかもしれません。
実際この曲も、ながく歌いつがれてきたというよりも、
原発事故をうけて、YouTubeなどで再発見されたという感じです。

そもそも『COVERS』は、どういうきっかけで制作されたのでしょうか。
キヨシローの『ロックで独立する方法』(2009年)より。

(p164)
『カバーズ』は、要するに「自分たちの音楽活動のルーツに一度返ってみよう」という、
ある意味でビートルズの『ゲット・バック』みたいなものだった。
結局、当時のRCはビートルズの末期に近い状態だったのかもしれない。

アニマルズ、ストーンズ、ザ・フー、クリーム、ディラン……
そういう自分たちが少年時代に聴いてたナンバーのカバー集ってことで、
みんなノッてくるに違いない企画だと思ったのに、やっぱりちっともノリが良くない。


停滞していたバンドを、もう一度活発にしようというこころみが、まずありき。
そのうえで、どぎついメッセージをのせていこうと。
ふたたびキヨシローのインタビューから。

(p61)
◯…政治的な行為そのものをカッコ悪いと思ってた忌野清志郎が、何故今また?
「それはね、やっぱ当時みんながやってたからカッコ悪いわけであってね、
 今誰もそんなことうたってないの(笑)。
 だから俺はうたってんだ。
 もし周りにそんな奴がいたらカッコ悪いと思うよね、きっと(笑)」


◯なるほど、とりあえず忌野さんにとっては、政治的なメッセージというよりは、
 何か人のやってないことをやりたいみたいな、そういう要素が強いと。
「うん、そういう要素も多分にあると思う。いつもそうだったし」

だれもうたっていないから、オレがうたうぞ。これはウケるにちがいない。
そういう意識があればこその「サマータイム〜」であり「君が代」であり。
テキトーな歌詞で何百万枚売れたってしょーがねーんだよ、と。

実際、キヨシローの歌の世界は、反戦反核がすべてではありません。
あくまでもキヨシローを構成する要素の一部であるということです。
「反権力のヒーロー」とか、そーゆーのにまつりあげられるのは、
おそらく本人はものすごくイヤだったんじゃないでしょうか。
「フォークの神様」「ロックンローラー」などのレッテルから、
つぎつぎに身をかわし、さきへさきへとすすんでいったボブ・ディランのように。

とはいえ、つけ焼刃的に歌詞をでっちあげたわけではなく、
そこにはキヨシローが蓄積していた、かれなりのモノの見かたがあったわけで。

(p67)
「ですから何と言いますか、
 例えば原子力発電所が1個ぐらい爆発してですね、みんな汚染されたとしてもですね、
 何て言うかな、首脳部って言うの、偉い奴だけそれからまぬがれてさ、庶民だけ、
 て言うか自分がほら、放射能とか浴びて歯茎からどぼどぼ血が出てさ、
 手がぶよ〜っとかこんなんなってさ、死んでくってヤじゃん、やっぱり。
 それが言いたかったんですけどね」


他人ごととしてうたをつくっても、それじゃだれにもとどきません。
どれだけじぶんにひきよせて、うたをつくれるか。
ポリティカル・コレクトネス的な、だれにも批判されない無味無臭のうたではなく、
どれだけ非難が殺到しようが、「オレの」うたをうたう。
その強烈な「オレ」のにおいがあるからこそ、
いまもキヨシローのうたが、そこかしこでうたわれているのでしょう。

音楽にメッセージをのせることについて、本書で坂本龍一教授はこうかたります。

(p198)
「やっぱり金融とかやってる人はデモなんかやってる奴を見てさ、
 『なんてナイーヴなんだあいつら、バカじゃねえの』とかって。
 ナイーヴってのは、英語ではわりと否定的に使われるんですよ。
 “That's too naive.”とかってさ。
 だけどナイーヴさってのは必要でしょうね、音楽とかアートとかね。
 で、彼らが言えないことを言ってあげるっていうと不遜ですけど、
 誰かが言わなきゃいけないわけ」


ひとびとのこえにならないこえを、すくいあげてさけんでくれる。
じぶんじしんのこととして、いっしょにうたってくれる。
一方的に音楽を享受するがわの、勝手なおもいこみかもしれないでしょうが、
キヨシローは、そして教授もまた、そういう対象なのだとおもっています。
…ナイーヴすぎたかな?

スポンサーサイト

トラックバック一覧

コメント一覧

コメントの投稿

名前

タイトル

メールアドレス

URL

本文

パスワード

非公開コメント管理者にだけ表示を許可する

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。