スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

三池崇史監督『一命』


Original Sound Track 一命 Harakiri - death of a samuraiOriginal Sound Track 一命 Harakiri - death of a samurai
(2011/10/12)
坂本龍一

商品詳細を見る

初日に見てきました。
客席は、時代劇だからなのか、年配客がめだちます。
ほかの三池監督作品は見たことがあるでしょうか。きいてみればよかったかも。

『十三人の刺客』が、敵味方いりみだれての大活劇だったのに対し、
今回は、ぐっとおさえた「静」の作品。
ながまわしをつかってピリピリした緊張感をたもち、
見おわるとなぜか、ふうっといきをついてしまいました。

サントラのサブタイトルは「Harakiri - death of samurai」。
(坂本龍一教授の音楽、抑制がきいたつかいかたで、すばらしかったです)
ものがたりの前半、千々岩求女(瑛太)による竹光での切腹シーン。
すでに刀は、妻と赤ん坊のためにうりはらっていたのです。
それを知ったうえで「その立派な刀で腹を斬ってみせろ」とせまる沢瀉(青木崇高)。

ねがいがききとどけられぬとさとり、白装束をぬぎ(減量したガリガリのからだ!)、
ふるえる手で竹光をもち、何度も、何度も、何度も、腹につきあてる。
もろくなった竹光はおれ、切っ先するどくなった部分を、さらに腹におしあて、
憤怒の形相で「…介錯を!」と沢瀉にたのむも、「引きまわされい」とまだ斬らず。

腹をさしはじめてから、求女がいきたえるまで、おおよそ5分はあったでしょうか。
Vシネテイストなグロいカットはありませんが、画面を正視できませんでした。
じぶんじしんの腹を、切れあじのわるいなまくら刀で、じわじわ刺されているようで。

もうひとつのアクション、津雲半四郎(市川海老蔵)の大立ちまわり。
ただし竹光で。

堂々たる身のこなしで、山ほどの井伊家武士たちを圧倒する半四郎。
かれの目的が、井伊家のものたちの命をうばう復讐ではなく、
求女(とその妻子)の命をうばった「武士の面目」を木っ端微塵にすることであると、
そのすがた、そして眼力から見てとれます。

「ねじふせる」ということばが、これほどふさわしいシーンはなかなかありません。
さきの戦争(関ヶ原の戦い)をしらない武士たちを、戦中派である半四郎が、
つぎからつぎへとうちたおしていく。
もうひとつ、例の事件に代表される、映画のそとでのさまざまな醜聞を、
市川海老蔵がおのれの演技ひとつで、問答無用でけちらしていく。
いきをのむシーンでありながらも「お見事!」と声をかけたくなりました。

しかし今回、もっとも感情移入してしまったのが、
井伊家家老・斎藤勘解由(役所広司)でした。
武士として、とおさねばならないすじをまもらんとしての言動。
決して、ただ冷酷なだけの、ステレオタイプな悪役ではありません。

たとえば、切腹の際に求女が竹光をはじめてぬくシーンで、
勘解由は「えっ?」という顔をして、介錯人である沢瀉のほうを見ます。
竹光で切腹などとあまりにも、と、じぶんの腰の脇差を貸そうとまでするのです。
(それは沢瀉のよこいり、求女の「妻子のために三両を」で、おさめられますが)

介錯をもとめる求女を、なかなか斬らない沢瀉。
見かねた勘解由、かけよって沢瀉をしりぞけ、じぶんの刀で求女を斬ります。
その後、求女の遺体とともに、約束の三両を半四郎のもとへとどけさせもします。
半四郎が切腹を申しでたときには、
「悪いことは言わぬ、このまま…」と、帰るようにさとそうとも。

決して悪人ではない。
「武士の面目」なるものを、なんとかしてまもろうとしていただけ。
しかしそれは、半四郎にとっては「くだらぬ!実にくだらぬ!」ものであったと。

「赤備えの武勇を誇る御当家においても、武士の面目とは、
 しょせん人目を飾るだけのものと見受けまするな」


井伊家自慢の「赤備えの鎧」は、大立ちまわりのなかで、
半四郎が敵の武士をなげたときに、ガラガッシャンとくずされてしまいます。
ことがおわったのち、井伊家はその鎧をもとどおりにくみたてなおし、
殿さまが屋敷にかえってきたときに、なにごともなかったようにふるまいます。

「手入れをしてくれたのか」
「はっ、赤備えはわれらの誇りでありますれば」


求女の、イヤ、おとりつぶしになった福島家浪人たちの、
窮状をその身にせおった半四郎のうったえは、なにもなかったことにされたのか。
そもそも、そのような見ぐるしいとりつくろいをせねばならないほど、
「武士の面目」なるものは、うわっツラだけの、しょーもないものだったのか。

狂言自殺をせねばならないほどにおいこまれていた求女。
そこまでにいたった背景を、心情を、だれも察せなんだかといきどおる半四郎。
武士たるものがそのようなことをしてはならぬと、武士の手本たろうとした勘解由。
だれが悪というのではない、だれが絶対にまちがっているわけでもない。
だからこそ、このようなかなしい結末になることが、つらくなります。

「拙者はただ生きて、春を待っていただけでござる」

ただそれだけのことが、どうしてはたされないのか。
すなわち、ただ生きるだけのことがつらくきびしい、現代のうつし鏡でもあります。

おまけ。

①ひたすらあやまりつづけている美穂(満島ひかり)を見ていると、もうつらくて。
 「おひさま」での快活なすがたを見ていただけに、よけいに。

②井伊家の三人衆、キャラクターのえがきわけがよかったです。
 武士たらんとするもの、冷徹なふるまいをするもの、正視できずうろたえるもの。
 あいてが一枚岩の、わかりやすい敵ではないことが、よくわかります。

③竹中直人のつかいかたが絶妙。
 よく暴走させず、終始おさえた演技にさせられたものです。さすが三池監督。

スポンサーサイト

トラックバック一覧

コメント一覧

コメントの投稿

名前

タイトル

メールアドレス

URL

本文

パスワード

非公開コメント管理者にだけ表示を許可する

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。