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津田大介『情報の呼吸法』


情報の呼吸法 (アイデアインク)情報の呼吸法 (アイデアインク)
(2012/01/10)
津田 大介

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全160ページほどの新書サイズ。
びっくりするほど、スルスルとあたまにはいっていき、パッとよみおえました。
というのも、
「これはメルマガにかいていたはず」
「あの雑誌に寄稿した、あの文章のことだな」
「たしかUSTREAMかニコ生でも、こういうことをしゃべっていたなあ」
と、デジャヴ感覚をもって、よみすすめることができたためです。

たとえば、じぶんのかんがえがかわることをおそれない、ということに関して、
坂本龍一教授についてふれた以下の文章。

(p142〜143)
2005年に「CDがうざい。早く捨てたい」と発言していた坂本龍一さんが、
2008年には「CDが完全に消えるとは思わない。
人間には、触ることのできるものを持っておきた欲望がある。
ぼくもネット経由で大量にダウンロードする一方、
手元に残したい曲はレコードやCDで買う」(『朝日新聞』2008年12月のインタビュー)
と、一見正反対に見えることを言っているのも注目に値します。


このはなしは、2009年4月に発売された、
『ユリイカ 総特集 坂本龍一』において津田さんが寄稿した、
「坂本龍一の柔らかな転回」において、かたられていたことです。
(この稿はその後、メルマガ『津田大介の「メディアの現場」』に再録されました)

(『ユリイカ〜』p93)
05年に「CDがうざい。早く捨てたい」と言っていた彼が、
今「CDが完全に消えるとは思わない。
人間には、触ることのできるものを持っておきた欲望がある。
ぼくもネット経由で大量にダウンロードする一方、
手元に残したい曲はレコードやCDで買う」(08年12月、朝日新聞インタビュー)
と正反対に見えることを言っていることにも
彼にしかわからない「理由」があるのだろう。


このことを、
「なんだよ、むかしの文章のやきなおしかよ。才能が涸渇したか」ととるか、
「そうか、あの文章はこういうことをいいたかったわけだ」ととるか。
ぼくは後者です。
これまでじぶんがみてきた津田さんの、こしかたゆくすえをたどっていくことで、
かれの主張したいことが一本の線になって、くっきりとみえてくるという、
おもしろい構成の本になっています。

まずは「ツイッターってなに?はやってるの?」という初心者むけ。
情報をつかうとはどういうことなのか、基本のきからしることができます。
いまソーシャルメディアをつかっているじぶんがよむと、
基本的なかんがえのみならず、実際につかえるこまかなアイデアがおもしろい。

(p91)
実際、ツイッターのリツイートでも、
語尾を「だよ」から「だね」に少し変えるだけで、リツイートの数が変わったりする。
ちょっとしたニュアンスで伝えられる人が大きく変わるということを
エゴサーチで知ることができるわけです。


うえから目線にとられそうなところを、共感をよぶようにかえてみる。
たった1文字だけで劇的な変化がおこるものなのですね。

(p99)
あとは自分が面白いと信じることを継続することです。
まずは1年間続けてから考えてみてください。

我慢して続ければ、それが情報を「棚卸し」する際の血肉になっていきますし、
結果的に自分の強みにもなり
「このジャンルの情報発信を続けるんだ」という自負も形成されます。


おもえば2011年は、じぶんの生活がおおきくかわった年になりました。
ツイッターを本格的にはじめ、デモや講演会の実況をはじめ、
(信用担保の意味もふくめて)ブログをはじめ、IWJ中継市民をはじめ。
「継続は力なり」とはよくいったもので、
つたない文章力ですが、1年前とくらべてそれなりに効果はあったかもしれません。
で、このさきどういう方向にむかっていけばいいのか。

(p105)
これから求められるのは、
情報と情報を結びつける、この人とあの人を結びつける、もしくは、
こういう情報が眠っているから、あの人に話をつけると早くなるだろうなという
有機的なつながりを見つけていく方法論だと思います。


そう、そこなんです。
ぼくひとりの知識や影響力なんて、たかがしれています。
でも、すくなくとも、ぼくがうごきやすい愛媛県内においても、
(とくに3.11後に)おもしろい、興味ぶかい行動をしているひとは、
たくさんいるはずなんですよね。
そういうひとたちのこえをひろいたい。
というよりも、そのひとたちに、ぼくを利用してほしい、というか。

もちろん、ただまっているだけでは、なにもおこらないのだから、
こちらからどんどん、いろんな情報をシェアしていく必要がありますね。
リアクションの有無にかかわらず、そうすることが、つぎにつながると信じて。

(p57)
人間は「物事が動き出す瞬間に居合わせる」ことに
ものすごく興奮する生き物なんだと思います。
これはずっとソーシャルメディアを見ていて自分が気づいたことでもあります。
いまこの場所に自分はいる、
いまこのイベントに自分はいる、
いまこのスレッドに自分はいる……。
いましかあり得ない「伝説」がここで作られようとしている、
その瞬間に立ち会うことに興奮するのです。


「ながいものにはまかれたい」気質な、愛媛県人のぼくですが、
まかれてばかりじゃおもしろくありません。
厳然として存在する「ながいもの」がそこに存在することを、
ジワジワとまわりにみえるようにするような、
ソーシャルメディアでもって、そういううごきをしてみたいものです。

これからのじぶんのありかたに、おそらくおおきな影響をあたえるであろう、
『ソーシャルメディアの夜明け』そして『情報の呼吸法』。
としあけ早々に、ずいぶん濃い2冊をよんだものです。
またよみかえしてみます。

塩崎恭久『「国会原発事故調査委員会」立法府からの挑戦状』


「国会原発事故調査委員会」立法府からの挑戦状「国会原発事故調査委員会」立法府からの挑戦状
(2011/12/20)
塩崎 恭久

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きょう書店にいくと、尋常でない量のひらづみになっていました。
地元選出の大物政治家ということで、大量にさばけるとふんだのでしょうか。

もうしわけないのですが、じつはタダで入手してしまいました。
先日おこなわれたイベント「しぜんなひと しぜんなみせ 農でいこうよ」
ゲストに山本太郎氏が登場したことで、新聞でもとりあげられましたが、
終盤に、会場をおとずれていた塩崎氏が、山本氏によばれるかたちで登場。
表題の委員会のことなどをはなし、退場するさいに、
発売前の本書を4冊、来場者へのプレゼントとしておいていきました。
はやいものがちだったので、速攻でもらいにいき、手にいれたのでした。

「東京プレスクラブ新書」の001号。
創刊したばかりのシリーズみたいです。
はじめてきくなまえですが、くわしくは「東京プレスクラブ」HPまで。

福島第一原発事故について、政府主導・官僚主導で調査するのではなく、
国会議員が、民間の専門家を委員に任命する、日本の憲政初のこころみ。
正式名称「東京電力福島原子力発電所事故調査委員会法」が成立するまでの、
およそ半年間のながれを、時系列順におっていく構成です。

(p49)
これまで、日本には、
「国会議員からなる委員会」や「政府の三条委員会」は存在したが、
「民間人で構成する、国会の委員会」は存在したことがない。
前例のないことはできないと考えるのは、
法制局の立場としては無理からぬことだったと思う。
しかし、前例はなくても、あるべき姿を追及するのが政治家の役割である。


こういう委員会がなかったというのは、勉強不足ですがはじめてしりました。
では、なぜ「国会議員からなる委員会」や「政府の三条委員会」ではダメなのか。

(p4〜5)
政府は5月に「事故調査・検証委員会」を作り、すでに調査を始めているが、
これでは不十分だと私は考えた。
政府内に作られた調査機関が、
果たして政府自身の失敗を客観的に検証できるのかという疑念は、
誰もが拭い去ることができないからだ。


(p7〜8)
無論、衆議院法制局や後に民主党から繰り返し提案された、
いわゆる「三条委員会」(独立行政委員会)なら、
もっと早く発足することはできたのだろう。
しかしそれではあくまで政府の中で止まり、
任命も政府、事務局も霞が関の官僚となり、
そこで妥協していては全く意味がなくなってしまっていたはずだ。
それでは世界に対する責任は果たせない。


政府・与野党の思惑に左右されない、客観的な立場からの調査をすることによって、
国内のみならず、国際的な信頼をとりもどすこと。
第6条では、国会議員が委員に接触したとき、衆参両議院の議長に報告する義務を課し、
小細工がおもてざたになるのがイヤだろうという、接触規制をつけています。

法律をつくるという、政治家本来のしごとがどのようなものか、
この法案を一例としてじっくりみていくことができます。
これが与党であれば、官僚がなにからなにまで、てとりあしとりやってくれますが、
現在の塩崎氏は野党。
政府立法ではなく、議員立法、しかも野党の、という困難。

(p112)
事故調査委員会法を施行し、委員会や事務局長などの選定に着手して、
私がすぐに気づいたのは、
すべてが正に前人未到ともいうべき領域に踏み込んでいるということだった。
行政に頼っていたときには、霞が関の官僚がすべてお膳立てをしてくれるわけだが、
今回のように、国会に関わることの場合、その官僚のサポートはなく、
国会議員が何から何まで自ら決めていかねばならず、
毎日が新たなる発見の連続だった。


法制局からも、最初はまえむきな反応がえられず、
はなしを理解してもらうのに苦労したようです。
さらにうごきがにぶかったのが、与党民主党。
法案についての民主党からの要望をうけいれ、あとは民主党内の進展をまつ…のですが、

(p76)
しかし、その後、民主党側からは共同提出に向けた動きが一向に出てこない。
再度、確認と思い安住国対委員長に連絡をするが、なかなか連絡がとれないので、
最終的には国会本会議場内でどうなっているか直接に問いただした。
すると「あの件は、もう俺の手を離れた。幹事長か、最終的には菅総理が決める」
という驚きの返事が返ってきた。

そこで自民党の議院運営委員会理事である菅義偉、遠藤乙彦両代議士が、
川端委員長に働きかけてくれることとなった。
しかし、返ってきた反応は期待はずれのものだった。
川端委員長からは「民主党国対から聞いてない話を、野党理事から先に聞く必要はない」
と言われてしまった。
これで、民主党との交渉ルートが完全に閉ざされてしまった。


結局は、8月9日、自民・公明・たちあがれの3党共同の提出に。
しかしその後の与野党実務者会議では、民主党からなおも三条委員会案が。
ひとつの法案が成立するまで、これほど時間がかかるものかと。

ここでは、著者・塩崎氏からのみかたでかいているわけですが、
この半年間の経緯について、民主党の担当者からのみかたもよみたいところです。
いわれっぱなしじゃおもしろくないだろうし、
文中にでてくるひとたちのいいわけ…もとい、説明をきいてみたいなと。

ちなみに、本書の4分の1は、参考資料。
文中にも、作成したペーパーや、国会議事録の抜粋などが引用されています。
そこでおもいつきですが、この本を電子書籍にして、
こういった資料をURLリンクにしたら、よりよみやすくなるのではないでしょうか。
(あと、著者紹介でツイッターアカウントもあるといいな、なんて)

羽田正『新しい世界史へ―地球市民のための構想』


新しい世界史へ――地球市民のための構想 (岩波新書)新しい世界史へ――地球市民のための構想 (岩波新書)
(2011/11/19)
羽田 正

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「地球市民」ということばには、どこかうさんくささをかんじてきました。
「かってにひとまとめにするなよ」という反発のようなものもあるし、
「グローバル」と名のついた概念のあやしさへの警戒心もあります。
(坂本龍一教授のシングル曲「World Citizen」も、最初はちょっと抵抗がありました)

そのぼくが、まさかこういう本をよみこむようになるとは。
本書の主張は、こうまとめられています。

(p211)
地球社会の歴史は、「世界をひとつ」と捉えるとともに、
世界中の様々な人々への目配りを怠らず、彼らの過去を描くものでなければならない。
新たにそのような世界史を構想するべきだ。
これが本書の主張である。


なぜか。
それは、現行の(日本でおしえている)世界史理解が時代とあわなくなり、
問題があるからだといいます。
その問題点とは。

(p90)
①現行の世界史は、日本人の世界史である。
②現行の世界史は、自と他の区別や違いを強調する。
③現行の世界史は、ヨーロッパ中心史観から自由ではない。

これら現行世界史の3つの問題点の根は、実は同じである。
19世紀に成立した近代歴史学そのものが、この3つの性格を備えているからである。
それは、ヨーロッパ(自)と非ヨーロッパ(他)を区別し、
さらに自国と他国の歴史を別のものとして世界の歴史を構想するのだ。


あまりに自国の独自性(ひいては優越性)に固執しすぎると、
自国と他国をまったくちがうもの、あいいれないものとしてみるようになると。
それは歴史のかたよった一面しかみない、みたくないということ。

ひとつの国・地域のもつ特徴が、その国・地域だけで獲得したものだとはかぎらない。
そとがわにあるさまざまな要因がかさなったからこそ、成立しえたものかもしれない。
たとえば、19世紀イギリスの経済成長も、世界じゅうのひとびとの活動の結果だと。

そして、ヨーロッパ―非ヨーロッパというわけかたも、もう意味がないのでは。
どこかひとつの国・地域が地球全体をひっぱるというかんがえかたは、通用しない。
(=ウォーラーステイン世界システム論の否定)
まして、ヨーロッパというかたちで、かんたんに十把ひとからげにできるものでもない。

(p146〜147)
大事なことは、従来からの固定された歴史の見方を
一旦白紙に戻してみるという姿勢である。
私たちは、これまで日本や中国という「国家」を中心にした一国史的歴史観に
あまりに慣れ親しんできた。
現実に国家が存在するわけだから、この見方が必要ないとは言えない。
しかし、この見方が絶対でもないはずだ。
国民国家史を寄せ集めた世界史ではなく、一体としての世界史を新しく構想する際には、
国民国家史を相対化した過去の捉え方がどうしても必要になる。


おのおのの視座を超越したところからみた、あたらしい歴史のみかた。
「それは、ひとつのみかただけをおしつけるファシズムじゃないのか?」
イヤ、単一のみかたにこだわるのでないと。

(p161)
…私はある種の理論によって世界の過去が統一的に整理して示せ、
その結果としてみなが納得する唯一の世界史が叙述できるとは考えない。

世界はひとつだがそこに住む人の個性、境遇、考え方は様々なのだから、
多様な世界史の理解と叙述がある方が自然なのではないか。
同じ地平に立ってさえいるなら、全員が同じ方向を向く必要はない。
世界史の書き方は複数あるべきだ。


そうしたえがきかたをするために必要な、3つの方法とは。

(p166)
①世界の見取り図を描く
 ある時期の世界の人間集団を横に並べてその特徴を比較し、
 モデル化して相違点と共通点を指摘しながら全体像を把握する。

②時系列史にこだわらない
 ①で作成した世界の見取り図を、時系列によって連続的に理解するのでなく、
 一枚一枚を現代と比較する。

③横につなぐ歴史を意識する
 世界中の人々が、モノや情報を通じて緊密につながり、
 互いに影響を与えあっていたことを説得的に示す。

これはおもしろそうですね。
「歴史は順をおってまなぶものだ」というのは、かならずしも唯一の方法ではなくて、
もしかしたら、ただ学校でそうまなんできたから、というにすぎないのかも?

おなじ時期の、世界じゅうのひとびとのうごき・ながれをつかむというのは、
いま現在の世界情勢をしるのに、ぼくたちが日々していることなのかも。
それを、世界史をまなぶうえでもやってみたらどうか、と。

このかんがえかたにかなりちかいのが、武光誠監修『ヨコガク世界史』でしょうか。
みひらきのパノラマで、同時代に各地でなにがおきていたかを把握する構成。
こういう世界地図のホワイトボードで、円や線をグリグリひっぱって、
世界がつながっていることを、視覚的に説明してみたいですね。
(技術がともなっていないのはおいといて…)

小寺信良『USTREAMがメディアを変える』


USTREAMがメディアを変える (ちくま新書)USTREAMがメディアを変える (ちくま新書)
(2010/11/10)
小寺 信良

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すでにツイッターで報告したとおり、
11月からIWJ(Independent Web Journal)愛媛の中継市民として、
愛媛県内の講演会やイベントなどのUSTREAM配信をすることになりました。
あらためて、よろしくおねがいします。

現在の機材は、ロジクールのwebカメラをMac Book Airにつないでいます。
回線は、auのモバイルWi-Fi。
ただこれが、しょっちゅうきれてしまいます。
コードぬいたとか、スイッチきったとか、そういう凡ミスはしていないはず。
どういうわけなのか…というのもふくめて、この本で勉強ちうです。

(p57〜58)
モバイルWi-Fiは、受信状況により途中で回線が切断してしまうことも十分考えられる。
また1カ所のポイントにユーストリーム利用者がいっぺんにアクセスしてしまうと、
帯域の取り合いになってしまい、速度が低下する。
さらに下り(ダウンロード)と上り(アップロード)の速度が非対称であり、
放送に必要な上り速度が確保しづらいという特徴がある。

もっとも現実的な解は、そのような状況になることを前提で、
番組を進めていくことである。
回線が切れたらそこで一旦番組を中断し、
再接続した時点で再開するなどの臨機応変さと、心臓の強さが要求される。
多くのユーストリーム番組は、
愛と勇気とド根性でそこを乗り越えている。
そして視聴者側も、それを許容しているユルさがある。


うーむ、技術的になんとかすることはムリなのかしらん。
なんど回線がきれても、そこはきもちでのりこえろ、と。
なるたけ、みていただいているかたがたに不快なおもいはさせたくないのですが。

有線でつなげば安定するのでしょうね、きっと。
とはいえ、家から会場までコードをひっぱってくるわけにもいかないし、
現場にネット有線があるかどうかもわからないし。
そんなわけで、これからもたびたびプッツリいくとおもいますが、ごめんなさい。

このほか、USTREAMを配信するうえで、こころがけておきたいことがたくさん。
たとえば、視聴の告知は1日前〜当日に集中したほうが集客力がたかまること。

(p94)
その理由は3つある。

①人はその番組を見るために生きているわけではない

②ネットユーザーは、長くは待てない

③長時間放送のメリットを活かす


「こんなにおもしろいのに、なぜもっとみてくれないのか」
「とてもだいじなことをはなしているのだから、みるべきだ」
と、かたくなになってしまってはいけないと。

突発的にアクシデントがおこることをおりこみずみなのが、USTREAM。
まして、視聴しているひとにだってそれぞれの事情があるわけで。
みないひとにやつあたりするのでなく、配信するこっちが工夫しなきゃ、ですね。

こころみに、時間がゆるすかぎりはやい時刻から配信をはじめたり、
イベントがおわったあと、撤収するあいだも中継をつなげておいたり、など、
「skmts」のようにやってみたいな、とおもいます。
が、現実には回線がプチプチきれてしまって…なかなか…。

もうひとつ、USTREAMの録画をおいておくだけでなく、
「要するになんだったのか」をくわえて、わかりやすくしておく方法があるそう。

(p204〜208)
以下、考えられる3つの方法をご紹介しよう。

①アーカイブ動画に対するチャプターの付与

②ダイジェスト版の作成

③文書化


時間があればぜひやっておきたいところです。むずかしいですが…。
ただ、講演した内容のかきおこしについては、許諾がどうなるのでしょう。
今後、はっきりしたガイドラインができるかもしれません(もうできてる?)。
そこでちからを発揮するのが、リアルタイムツイート実況=「tsudaる」。
本書では津田大介氏のことにもふれ、「tsudaる」の名称をつかっています。

(p211〜212)
tsudaる行為に対しての著作権的な解釈としては、
発言を逐一文字化するのではなく、伝達者によって選択あるいは要約されるので、
著作権侵害とはならないという判断が一般的である。

このtsudaるという行為を、アーカイブ的に評価することもできる。
つまりユーストリーム番組と、誰かがtsudaったタイムラインをマッチングさせれば、
ある程度の文字化が行われたことになる。
大きなイベントともなると、複数人が平行してtsudaっている状況も珍しくない。
このようなものをまとめてユーストリームのアーカイブに接続できると、
文字化するという行為も著作権的な問題をクリアしつつ、
タスク分散できることになるのではないか。


松山市での「週刊金曜日」北村肇氏や、広瀬隆氏の講演会では、
USTREAM配信をしつつ、 #IWJ_EHIME1 タグでtsudaってみました。
なれないうちは、どっちつかずになってしまいますね。
回数をこなしていけば、なにかしらコツがつかめてくるかもしれません。

さいわいIWJ愛媛の中継市民は、ぼくひとりではないので、
いろいろなかたにたすけてもらいながら、やっていこうとおもいます。
できれば、体力と時間のあるわかいモンに、どんどんやってほしいんじゃがのう…。
大学生しょくん、としよりをたすけるとおもって、どうかね?

まあとにかく、隗よりはじめよってことで、やるだけやってみます。
ことばだけじゃなく、実際にうごいてみせなきゃね。

河名秀郎『ほんとの野菜は緑が薄い』


ほんとの野菜は緑が薄い (日経プレミアシリーズ)ほんとの野菜は緑が薄い (日経プレミアシリーズ)
(2010/07/09)
河名 秀郎

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本書の主旨は、農薬や肥料をつかわない「自然栽培野菜」についてですが、
いまぼくがよみかえしたのは、さいごの第7章「野菜に学ぶ、くらしかた」です。
先日かいたように、ちょっと体調をくずしたこともあって、
じぶんにとって「健康にくらす」というのはどういうことか、とふとおもって。

ひとそれぞれ、環境も体質もちがうのに、
なんでもかんでも、あれがいい、これがきく、というのが、万人に通じるのか、と。
あるていど、これだけはやっとかないと、というのはあるでしょうが、
必要とされる数値にあわせていく、というやりかたでいいのかどうか。

そのあたりのヒントをもとめて、よみかえしてみましたが、なるほどおもしろい。
文中のキーワードをつかいながら、どうくらせばいいかの主張をまとめてみます。

◯ 野菜と人は同じ、と考えてみる

著者がこの章をかくにあたって、
ホスメック・クリニック院長の三好基晴氏の影響をうけているといいます。

三好医師は、生活習慣病が専門で、
アトピー、化学物質過敏症、シックハウス症などアレルギー患者を中心に診察。
クスリをださない。検査もしない。
患者の生活習慣をじっくりきき、原因を解決するための改善点を指摘するやりかた。

野菜に農薬も肥料もつかわないように、人体にもクスリをつかわない。
では、具体的にどうすればいいのか。

◯ 添加物や化学的なものをできるだけからだに入れない

不自然なものをからだにいれない、ということ。
たべる野菜は、無農薬、無肥料、つかってもできるだけ植物性の肥料のもの。
クスリ、サプリメント、健康食品はさけて、
自然に即したエネルギーのある食事を「おいしいなあ」とたべる。

◯ 体内に溜まった毒を出すこと

たまった血液、リンパ液をながす。
あせ、排泄物などで、体内の毒をだす。
病気になったら、その原因を体外に排出する。

◯ 風邪をひいて発熱することが、実は、万病の予防につながる

熱は、体内にはいってきたかぜのウイルスをころそうとする作用。
せきやはなみずは、体内にたまった老廃物や毒素をそとにだそうとする、おおそうじ。
食欲がなくなるのは、たべなくていいから。
からだがだるいのは、うごいてはいけないから。

かぜをひいたら、クスリをのまず、なにもしないのがいちばんの治療法。
同様に、ケガをしたときは、ドロや血をあらい、包帯をまくだけ。
キズの部分のぐじゅぐじゅが、雑菌からからだをまもり、皮膚をもとにもどす。
(このことは、夏井睦『傷はぜったい消毒するな』がくわしいです)

◯ クスリを心の拠りどころにはしない

「かぜに抗生物質はきかない」
「インフルエンザの予防接種には意味がない」
病気になってから治療にカネをつかうのではなく、
すこしたかくても良質なものをたべて、病気にならないからだをつくる。

◯ 栄養素という概念をとりあえず捨てる

ビタミン不足は、ふだんの生活での野菜不足、じぶんの不摂生が原因。
サプリメントなど、その場しのぎに対処するのでなく、本来の野菜・コメをたべる。
農薬が、野菜の病気や虫、土に対して、根本的な解決にならないように。

◯ イヤだと思うものに、あえて感謝の気持ちを持ってみる

じぶんにとって不都合なもの、イヤな存在にも、意味がある。
原因があるから、結果がうまれる。

(p188〜189)
自然界は全ての存在に役割があります。
そして、どんなにボタンを掛けちがえてしまっても、
その存在の全てが働き、必ずもとに戻していきます。
どんなに時間がかかったとしても、必ずもとに戻るー。
だからそもそも、善いも悪いも、そういった価値観自体が存在しない。
否定のない世界です。
人も、そのように生きることは不可能ではないと僕は思っています。


自然のものであれば、というのが、ひとつのポイントではありますね。
自然でないものは、もとにもどるのはむずかしい、と。
いまなお、自然でないものが、あちこちにふりそそいでいますが…。

不自然な生活をしておいて、あとになってドロナワ式になんとかするのでなく、
さきに自然な生活にきりかえておくこと。
急にはきりかえられないでしょうが、できることからちょっとずつなら。